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小説家を目指すことの可能性

最近、ツイッターを始めた。ツイッターと言う名称はイーロンマスクが退けば復活すると思うので、私はその名を使う。
で、そのイーロンマスクはツイッターでやたら自分が金持ちであることを自慢するようなツイートをしている。どういう仕組みか知らないが、ツイッターを開くと彼の記事がポンと最初に出てくる。この前は札束に囲まれた彼の写真があった。どんだけ自慢したいのか、あれだけ金持ちになると、自慢することくらいしかやることがなくなるのかもしれない。
そういう点では、近い将来、小説家デビューを目指している四十五歳独身の介護士の私の方が可能性はあるかもしれない。私は富よりも名声を求める人間だ。イーロンマスクほど金持ちにならなくとも小説家として歴史に名を残せれば満足できると思う。そうだ、名声だ。人間の欲望には大きく三つあって、富、名声、権力、がある。私はそのうち、名声を第一とする。だから、中学生の頃からマンガ家を目指した。ディズニーや宮崎駿を超えようと思った。しかし、二十代で絵の才能がないことにようやく気づき小説家志望に転向した。小説家というか芸術家は、特に作品を複製可能な芸術家は、将来に名声と作品そのものを残せる点が強い。二千年以上昔のホメロスの叙事詩は現代の日本でも手に取ることができる。政治的権力に抹殺されない限り、半永久的に残る。「半」と言ったのは、人類が滅びたら読み手がいなくなり、意味がなくなるからだ。しかし、デリダの哲学書などを読むと、言語空間のようなものが存在してそこには時間とは関係なく、ホメロスもセルバンテスもシェイクスピアもユゴーも村上春樹も初めから存在していたみたいな考え方も可能である。初めに言葉ありきを哲学的に考えるとそうなる。いや、哲学をもう少し進めれば私たち存在する者は初めから存在していた、と考えることも可能だ。私たちが出会うことは約束されていて、どういう人生を生きるかもすでに決まっているという、いわゆる運命論だ。私はその運命の中に自分の小説を存在させたい。言語空間というか、文学空間に自分の作品を登場させたい。私がそのために人生を賭けることは初めから決まっていたとしても、そこにある自由意志は私のもので、私が挫ければ私の書くべき小説も存在しないことになり、もともとそういう運命だったと落着することになるだろう。
名声などくだらないと言う人もいるだろうが、その人は有名か有名でないかのどちらかだと思う。有名な人ならば、有名になってみての実感だろうが、無名の人のその言葉はひがみか真実かのどちらかだ。もちろん、私も名声にこだわらない人生の素晴らしさもわかる。愛する人たちに囲まれ楽しく生きることがどんなに素晴らしいか。しかし、楽しく生きるためにはカネも少しは必要だし、カネを得るには働かねばならなく、そうなると現代の社会に参加することになり、資本主義ならばイーロンマスクとまでは行かなくともある程度は経済的に成功したいと思うものである。ただ、幸せを犠牲にしてまで富に執着するのは良くないし、名声や権力も幸せを犠牲にして得るだけの価値があるか疑問である。しかし、私は幸せを犠牲にして名声を求めている。独身で低収入に甘んじている。それは一回破滅しているからで、高校生の時に統合失調症という精神病を発症し、そこからの回復過程が私の大人になってからの人生で、その間、小説家として成功することと病気を良くすることを人生の両輪として生きて来た。だから、キチガイみたいに小説家としての名声に執着している。本当に辛い人生だったから、せめて努力を実らせ栄光を掴みたいと思っている。悲しい人生を、悲しいままにしないように。

そして、二十一世紀を代表する小説家になりたいとマジで思っている。

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