『空中都市アルカディア』2

第一部 ネオ・アテネ


第一章  幼年期


一、父の言葉

オリンピアの祭典の年の夏、ある晴れた日、六歳の黒髪の白人の男の子シロンは父に連れられ、ネオ・アテネ市内にあるリカヴィトスの丘を東側から登った。ごつごつした岩の地面を革のサンダルで踏みしめて息を切らし、急斜面では短パンから出た膝に手をつきながら登った。白いティシャツを汗に濡らしながら父のあとについて山頂に辿り着くと、視界に青空が広がった。その青空の西の上空約一万メートルに、空中都市アルカディアが黒く浮かんでいた。

 アルカディアは楕円形に近い形で、南北五キロメートル、東西三キロメートルほどの大きさで、上空一万メートルほどを西から東に向かって浮遊していた。四年に一度、オリンピアの祭典の年にネオ・アテネ上空に来た。アルカディアは世界中を回りながら、租税の品々を徴収していた。空中都市から線路のない空中を走る車輪のない列車が降りてきて、税を集めるのだ。地殻の大変動、大洪水後の新世界に飛行機という物はなく、アルカディアと下界を行き来する空中列車のみが空を移動する乗り物である。下界での乗り物は船、列車、自動車、それからホバーバイク、ホバーボードなどだ。乗り物の動力はすべて「斥力せきりょく」で、これは引力の反対で物と物が反発する力のことだ。斥力で発電して電気で動くか、ホバーボードやホバーバイクのように斥力自体の力で地上数十センチの空中を走る場合があった。そもそも、この「万有ばんゆう斥力せきりょくの法則」の発見があったからこそ、空中都市アルカディアは上空に浮かぶことができたと言われている。

 ネオ・アテネは、地殻の大変動前の旧世界のギリシャの首都アテネを模して造られた大変動後の新世界の都市である。新世界とは大洪水ですべての土地が海に没して何千年という時が経ち、再び顔を出した陸地に人々が降り立って造った世界である。それも二千年前のことだ。その陸地は旧世界と同じ形をした陸地ではなかった。地中海らしいものはあった。しかし、黒海はなかった。エーゲ海らしいものはあった。しかし、トルコの小アジアは半島ではなかった。アラビア半島らしい土地はあってもペルシャ湾と紅海はひとつのもので、その海と地中海らしい海を繋ぐ海峡をスエズ運河と人々は名付けたりもした。インドは半島ではなかった。インドシナ半島もなく、代わりに多くの島々があった。そのうちの北のほうにある島をジパングと名付けたりした。アメリカ大陸は南北に分かれてなく赤道にまたがる巨大な大陸だった。これらの新世界の大地の様々な場所に人々は旧世界の植物の種を撒き、動物を解き放って昔懐かしい世界を復活させたのだという。その辺の詳しい歴史はわかっていない。とにかく世界にはネオ・ローマ、ネオ・バグダッド、ネオ・デリー、ネオ・ペキン、ネオ・ロサンジェルスなどと古い名を冠した都市が散らばっている。人口はまださほど多くはなく、おそらく一億人もいないだろう。しかし、それぞれの土地で個性のある文化を作っている。それぞれの都市は列車や船で交易がある。しかし、先にも書いたように飛行機はない。アルカディア世界政府のもと平和な世界が築かれている。

今、黒髪で黒い瞳のシロンとその父がいるリカヴィトスの丘は、旧世界のアテネにあった丘と同じ名前が付けられた丘だ。ネオ・アテネのものは標高二百メートル程度の岩山で、周囲にネオ・アテネの街を見下ろすことができ、東に紺碧の海を遠望し、南西にアクロポリスの丘を見下ろすことができる。都市の規模は旧世界のアテネよりは小さく、街の周囲には田園地帯が広がっていて線路や道路が放射状に広がっているのが見える。ネオ・アテネには高層建築物がない。高層建築物は世界政府アルカディアによって下界に造ることは禁じられている。この新世界で高層建築物があるのはアルカディアの下部にある逆さまの高層ビル群だけだ。それらは逆さまに垂れているので高層建築とは言えないかもしれないが、とにかく新世界には技術はあってもそれを造ることを禁じる理由があるようだ。ただ、この世界の人間にとっては高層建築物がなくとも幸不幸には関係がない。だから、ネオ・アテネでは建築物は高くても八階程度が最高となっている。アクロポリスのお膝元、プラカ地区のほとんどが世界の首都としての官公庁でひしめいている。それらの建物も八階以上の高さはない。他の街並みは旧世界の二十一世紀頃のアテネと似ている。人々が再び地上に降り立って二千年が立ったことに合わせているかのようだ。人々の服装も旧世界の二十一世紀頃とほとんど変わりはない。エネルギー源は斥力であるところが、石油や石炭などに頼っていた旧世界とは違う。例えば、自動車が排気ガスを出さないため街の空気はクリーンだ。広い通りには自動車が行き交うが、繁華街には自動車は入れず、制限速度を守ればホバーボードやホバーバイクが歩行者の間を縫うように走ることができる。アクロポリスの丘の上にはパルテノン神殿がある。ネオ・アテネのパルテノン神殿は崩れた遺跡ではなく完全に復元されたものだ。復元と言っても、アクロポリスの丘の上の面積は旧世界の物より広くなっていてパルテノンは旧世界の物よりはずっと長い建物になっている。堂々たる白亜の神殿が丘の上から市街を睥睨へいげいしている。旧世界では神殿は極彩色であったとも言われているが新世界の神殿は白い。アクロポリスの他の建物も白く、丘を取り巻くように神殿に似た白い建築物がたくさん建ち、丘全体が白の建物の塊のような印象を受ける。丘の形、位置関係などからアテネと似ている土地をアルカディア人は選び、そこをネオ・アテネと定めた。東にはエーゲ海に似た、島々の多い海がある。その海はそのまま新世界でもエーゲ海と呼ばれている。旧世界ではアテネに最も近い海は南のサロニコス湾だったが新世界ではサロニコス湾はなくペロポネソス地方がそのまま南に陸続きとなっているためネオ・アテネに一番近い海は東のエーゲ海である。このような話を六歳の男の子シロンは父親から聞かされていた。

 「シロン、見てごらん。あれがアルカディアだよ」

とシロンの父は緑色のポロシャツの半袖から日に焼けて赤くなった右腕を伸ばして西の空を指さして言った。幼いシロンは絵本などでアルカディアを見たことはあったが、実物を見るのは初めてだった。空中に浮いた平らな岩塊の下部にたくさんの黒い高層ビルが下に向かって伸びている。逆さまのニューヨークのような近代都市だ。空中高くに浮いているため細かい部分はよく見えないが高層ビル群を縫うように交差している線は道路らしい。逆さまと言っても重力まで逆さまであるのではない。当然、道路から飛び出てしまえば下界に落ちるだろう。そのような事故もあるのだろうかとシロンは空中都市の交通事情について想像した。

 シロンの父は言った。

「いいか、シロン。アルカディアは天国のような場所だ。我々の理想の象徴として空に浮いているんだ。そこには理想の人格を持った人々、理想の社会があるんだ」

シロンは黒い瞳で父を見上げて訊いた。

「理想の人格?理想の・・・?」

「社会だ。理想の人格とは立派な人間という意味だ。そして、立派な人、優秀な人しかいない社会は悪人のいない素晴らしい社会なんだ。だから、下界の人々はアルカディアに行くためにみんな努力するんだ」

「努力?」

「うん。アルカディアは四年に一度、このネオ・アテネの上空に来るんだ。そして、ネオ・アテネを主な会場としてオリンピアの祭典が開かれる。オリンピアの祭典にはいろいろな競技がある」

「いろいろな競技?」

「陸上競技、水泳、格闘技、球技、など様々な運動競技、それから芸術、文学、料理、土木建築、家政、医術、等々あらゆる技術の世界一を決めるんだ。世界一の者には金メダルがもらえる。二番目は銀メダル、三番目は銅メダルだ。それらのメダルを取った者、あるいは八位以内入賞者はアルカディアに住む権利がもらえるんだ」

「ぼく、オリンピアの祭典で金メダルを取りたいな。それで、アルカディアに行くんだ」

とシロンが言うと父が言った。

「オリンピアの祭典では、金メダルよりも価値のあるものがあるんだ」

「え?」

シロンは父の顔を見上げた。白人特有の赤く焼けた肌の父は言った。

「試験を受けて、アルカディアにある唯一の大学、アカデメイアに入学することだ」

「アカデメイア?」

「うん、そこで学問をし、卒業時にさらに試験を受けて合格した者は、アルカディア自由市民となって、一生アルカディアで暮らせるんだ」

「アルカディア自由市民?」

「ああ、そうだ。メダリストあるいは入賞者になればアルカディア人にはなれる。だが、仕事を引退したら下界に降りねばならない。しかし、自由市民に引退はない。ずっとアルカディアで生活ができる。もちろん下界で生活することも可能だ。自由だからな」

「自由?働かずに遊んで暮らせるの?」

シロンは黒い目を丸くして父の顔を見上げた。

「うん、遊んで暮らすこともできる。アルカディアには下界にはない素晴らしい娯楽施設がたくさんあるそうだ。だが、遊ぶ以上に充実した人生を生きることが大切なんだ。シロンにはまだわからないだろう。アルカディアにはアゴラという広場があってそこで世界の政治を議論したり、哲学を論じ合ったりするんだ。いわば知の殿堂だ。アカデメイアではその知の殿堂に入るための勉強をするんだ。特に倫理の勉強をするんだ」

「倫理?」

「人の生きる道を考える学問だ」

「人の生きる道?」

「そうだ。アルカディアは別名『倫理の島』とも言われている。人はどう生きるべきか、それを答えることのできる人格が試験では試される。それは教科書には載っていない人の生きる道を自分で考え答える問題だ。そのためには勉強するだけではダメだ。良く生きることを日頃から考えていなければならない。お父さんは残念ながらアカデメイアには行けなかった。ネオ・アテネにあるリュケイオン大学を出た。リュケイオン大学はこのリカヴィトスの丘の下、コロナキ地区の南側にある大学だ。リュケイオン大学も名門であることに変わりはないが、アカデメイアに比べれば天と地ほども格の差がある。格だけではない。アカデメイアで学ぶ内容には下界では学べない秘密の知識があるらしい。例えば世界を統治するための知識、あるいは大変動が起きて空中都市に逃れた経緯、それからのアルカディアの歴史などだ。ほら、あの丘、パルテノン神殿があるアクロポリス、あそこはアカデメイアで学んで、ギリシャの行政官になった者がアルカディアの指令を受けて働いている神聖な場所だ。わたしは彼らの下で働く一般の役人に過ぎない」

シロンの父の眼はアクロポリスを見つめ、細められていた。

「シロン、おまえは学問を積み、人格を高め、アカデメイアに入学し、アルカディア自由市民になりなさい。おまえは将来、立派な大人になるんだ。結婚し家庭を持つ。もちろんアルカディアでだ。そうしたらお父さんとお母さんをアルカディアに呼んでくれればいい。家族でアルカディアに住もう。アルカディアはお父さんの夢だった。お父さんはその夢を叶えることができなかった。それをシロンに叶えて欲しいんだ」

シロンは笑顔で頷いた。
「うん、わかったよ。ぼくはいっぱい勉強してアルカディアに行くよ」

「勉強だけではダメだ。良く生きることを忘れるなよ」

「うん、わかった。ぼくは良く生きてアルカディアに行くよ」

 アルカディアからの空中列車が空を蛇行して下って来て、アクロポリスの高台に建つパルテノン神殿に横づけされた。


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