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人生は夢というありきたりな哲学

私は数日前、体調を崩した。昨日、回復し、noteにそのことを書いた。『病気で本当に死にそうなときの哲学』という題名だ。その内容は、病気で死にそうなときほど、真実が見えるというものだった。
その中で昼間見る夢の価値を語った。夢は死を忘れるためにあるのかもしれない。夢を信じる力は生きる力だ、と。
今日は普通に出勤し、まったく問題なく日常生活を回復した。それに伴って、日頃見ていた夢が私の上に覆いかぶさって来た。近い将来、有名な小説家になれる、作品をこの世に残せれば死んでも本望だ、などという、病床ではまったく無価値に思えた思想というか妄想が、私の中でふつふつと再燃したのだ。いや、病床で思ったことは、明るくて優しい女性と結婚して、家庭を持って幸せに暮らすことでしょ!しかし、体は健康で狂った頭の私には道理としてはわかっていても、長年の生き方は変えられない。なぜなら、この夢のおかげで統合失調症という精神的に苦しすぎる時代を乗り越えて来たのだから。妄想かもしれないが、それが私の生きて来た軌跡だから。
元気になると死というものを忘れてしまう。一番大切な物も忘れてしまう。昨日はその一番大切な物を書き留めておこうと思ってnoteを書いた。
しかし、今日の元気な私は、有名になりたい、金持ちになりたい、結婚するなら美人がいい、世界中を旅してみたい、など欲が出て来た。欲=夢?
私が去年から主張してきた「満足して死ぬ」というのは正確には「死ぬ直前に人生を振り返る余裕があるならば人生に満足できるように生きる」という意味だ。しかし、それは夢の中のこと、現実の死は夢の外だ。いわば人生の外だ。満足していようが、後悔していようが、痛みでのたうち回っていようが、死というものは変わらない、ひとつの境だ。境!この考えも夢だ。まるで向こう側があるかのような表現。死は境ではないかもしれない。終わりでもないかもしれない。始まりでもないかもしれない。空間も時間もないかもしれない。レヴィナスという哲学者の言葉を借りれば、「存在するとは別の仕方で。」かもしれない。
結局、夢の中でしか私たちは考えることができない。それならば夢を積極的に信じたほうが良さそうだ。それと、人を愛することは大切だ。人生は夢と言っても、隣人が実在する場は夢の外だ。愛することで夢の外の他者と繋がり合える、これは素晴らしいことだ。
物理的な現象のみを現実と思い込む人もいるが、それも死を前にしては夢だと悟るだろう。物理的でも精神的でも他者への働きかけだけが、夢の外と繋がる手段だと思う。

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