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白鳥静香先生の言葉より 180 無限なる円 茶室にて

白鳥静香先生の言葉を紹介します。







白鳥静香先生の言葉より 180 無限なる円 茶室にて









東洋には茶道という芸術があります。

小さな茶室でお茶をたてて客に出すのです。


主人が、客に茶をたてて出し、

客がその茶をいただくそのプロセスそのものが茶道という芸術となって
いるのです。





茶道では、茶室に座るとお茶が出てきます。


でも、茶道とはお茶を出すことではないのです。



お茶室とはお茶ではなく、心を出すところであり、

茶道とは心を出すことなのです。







心といっても、ここで気をつけなくてはならないのは、


その心とは、けして「おもてなしの心」というようなものではない
ということです。




おもてなしの心とは、

「私」が、「相手」を「おもてなしする」という、

あくまでも、
「自分」と「相手」とを区別する思考に基づいた心です。



「私」が、「相手」をどれほどおもてなししようとしても、


それは、すでに、「私」が心のなかで、

「私」と「相手」とを分けて考えてしまっているのです。




それは親切ではあっても、やはりひとつのエゴイズムにほかなりません。









茶の心とは、

そのような、自分と相手とを区別したうえで、相手をもてなそう
とする心ではなく、


自己と他者という区別の停止した心なのです。




その、自己と他者とを区別する思考の停止した心を

東洋では「道」と言ってきたのです。







東洋の芸術は、

茶道に限らず、すべては、この「道」というものを求める
ためのものなのです。









たとえていうなら、


心とは円のようなものです。


自己と他者の区別に基づいた
「私」という心を、有限の大きさの円だとするなら、


「道」とは無限大の円です。







無限であるから、

その円は私たちを包んで絶対に捨てることがないし、

私たちを捨てることがないから、

私たちは、その円のなかで、安らぎ、許されるのです。










現代では、マナーや行儀作法を学ぶためにお茶を学ぶ
という人も多いようですが、


もともと茶道は、

戦国武将たちが流行らせた遊びでした。





明日死ぬかもしれない戦国武将たちが、

そして明日だれかを殺さなくてはならないかもしれない
戦国武将たちが

それほどまでに茶道を愛したのは、




そこに、死や罪をもを越えて私たちを包んでくれる無限が
あるからなのでしょう。



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