見出し画像

不登校になりかけたのを先生が救ってくれた話

私は高校生のとき不登校になりかけたことがあります。

きっかけはとってもささいなことでした。
それは私が「赤面症」だったからです。

席替え後、仲の良い同士の男子生徒3人が近くの席になり、その3人は会話をよくしていました。
その席は私の席の両脇にあるので、私を挟むように会話をします。
高校生のときはクラスの男子とはあまり話さなかったし、
私からも話しかけなかったし、話しかけられることも少なかったです。

3人が会話をすると私の方向に視線が向くことになります。
私のことは見ていないけれど、こちらに視線が向いている。
当該男子たちに異性としての好意は全く無かったのですが、
「視界の中に入っている」ということをものすごく意識してしまいました。

そして会話の内容もどんどん耳に入ってきてしまう。
すぐ顔が赤くなるという私の性質もあり、ここで顔が赤くなってしまったらどうしよう、恥ずかしいな、
防ぎようがないから意識しないようにしなきゃ、と意識すればするほどダメで、
とうとう顔が赤くなってしまい、机の上に伏せました。

「うわぁ、赤面症?」、「自意識過剰」という声がその3人から聞こえてきました。

関係の無い女子が突然顔を赤くして伏せたら戸惑うだろうし、
楽しく会話をしていただけなのに興醒めだろう。
なんならいらぬ好意を向けられているかもしれないと嫌悪さえ感じてしまうかもしれない。
なので、その発言も仕方のないことと今では思えます。

翌日、私は学校を休みました。

当時は世界のすべてがとても狭かったと思います。
10代の人間にはよくあることかもしれません。
異なる世界や余白を使って気持ちを整理したり、こうすれば良いという知識や経験に乏しくて気持ちの切り替えも難しい。
大人の今だって難しいなと感じることも多いのだから尚更だなと思います。
とてもささいなことでも大きなことに感じてしまいました。
ただ、これは「いじめ」などではなくて、「恥ずかしいな」、「あの空間に居づらいな」というものだったと思います。

学校を休んだ日、担任の先生から自宅に電話が入りました。
内容は覚えていないのですが、その後の動きとあのときの心の感じを思い出して察するに、
先生が理由を尋ねてくれて、それに私が素直に答えて、笑わず真剣に受け止めてくれたんだろうと思います。

おそらくその電話があった翌日には登校をしているのですが、
そうなってしまった生徒を登校させるとは一体どんな声かけだったのだろうかとか、
自分の強さもあったのだろうかと、詳細が思い出せないのがとても惜しいです。

私が再び登校した日。
別の理由をつけて、先生の鶴の一声で半ば強引に席替え前の席に戻すことになりました。
先生がちょっと悪者になってしまうじゃないと思うも、そこまでしてくれるんだととても嬉しかった。
私の席から見た、先生が教卓でその話をしている光景はとてもよく覚えています。
全員の利益と一人の利益を考えて決断をすることはとても難しいことだったろうと想像できます。
(うろ覚えなのですが、電話で席替えを提案されていたかもしれません)

それから私は毎日学校へ行きました。

ある日、先生の担当教科の定期テストを返却のため、生徒がひとりずつ教卓まで取りに行きました。
「白鳥、学年トップだで」と声をかけてくれました。
私に自信を付けさせるような、それでいて周りの生徒にも白鳥ってすごいんだぞと思わせるような、
そんな思いやりがある言い方だったなと当時の私は受け止めていました。

私が描いた生徒総会の資料の表紙絵をほめてくれたり、
日誌のささいな言葉にも丁寧に対応してくれたり、
厳しい面もありましたが、生徒ひとりひとりをしっかりと見てくれるとても素敵な先生でした。



この一件は、学校に行きたいのにささいなことで行けなくなってしまった生徒と
その理由を作ってしまった生徒を生み出さなかったというのもとても大きいなあと思えます。

なぜかというと、休んでしまうと行きづらさが日に日に増して「休んでしまって行きづらい」という理由にすり替わってしまったり
理由となった生徒との謎の亀裂(恨みのようなもの)が増えていったかもしれません。
上手くいかないことがあったとき何かにつけて恨みの対象のせいにして、恨みを抱え続けるのはとても辛いことです。
そして、仲の良い友達とのあの貴重な時間も、学校に行けていなかったら過ごすことができませんでした。

また、中学生や高校生のとき、仲の良い友達数人が不登校になりました。
大人になってからも、以前不登校だった人と知り合えて当時のお話しを伺えたり、お子さんが不登校になったというお話しを伺います。

ただ、一面を簡単に切り取っているだけかもしれず簡単には言えないのですが、彼ら彼女らは広い世界をのびのびと生きていたように見えました。
不登校のきっかけや苦しみなどは想像以上の重荷があったと思えるのですが、そう生きてくれてよかったなと嬉しかった記憶があります。

そして、私はそこで不登校になっていたら、彼ら彼女らのようにたくましく過ごせていただろうかと少し不安に思います。

そして「人が親身になって助けてくれる」という経験はとてつもなく大きい。
思春期くらいのときは大人にとってはとてもささいなことで悩んでいたと思います。
ただ、当事者にとっては大きなことだったりします。
大人や他人にちゃんと向き合ってもらったかどうかは一生残るなぁと個人的に思います。
だから、私は先生に救われました。

今は周りの会話を聞いても耳に入らなくなりましたし、どんなに見られても顔を赤くすることはなくなりました。
当時と比べてずいぶんたくましくなったなぁ、とよく思います。
ただ、大学から化粧を始めて顔が赤くなっても隠せるという安心感や
サークル活動をとてつもなく楽しんでサークル仲間や関連する友人には恵まれていたのですが、
仮面浪人をする気満々の失意の中で大学生活をスタートさせていたこともあり同じ学部に友人も少なく、
片道最短2時間という遠くから通っていたこともあり、
独り行動も多くなったので徐々に適応していったという要素も大いにあると思います。



この「不登校になりかけたのを先生が救ってくれた話」を書こうと思ったのは、数年前の高校自体の同窓会の話題で友人からその先生の名前が出たとき。
私はすぐに「〇〇先生は恩人なんだよね」というようなことを口にしていました。
当時からずっと恩人だと強い思いを持って表に出していた訳ではなかったのですが、
10何年経っても頭や心のどこかで感謝をし続けていたんだろうと思います。
それを口に出したことで強く思い出して、どれほどのことをしてもらったかを改めて認識し今回書き残そうと思いました。

当時を思い出してこの記事を書いていると、自然と涙が溢れてきました。
とてつもない優しさで救われたんだなあという嬉しさで。

数年前の高校総体で久々に再会しました。
かなり久しぶりでしたし、先生も歳を重ねていたのですがすぐにわかりました。
「〇〇先生!お久しぶりです!白鳥です!」
「おお!白鳥ぃ!」
あの時の嬉しさと笑顔はまだ新鮮に覚えています。

おそらく夏に同窓会があるので、そのときに私は先生に救われましたという感謝を改めてお伝えできればなと思っています。

お読みいただきましてありがとうございました。

この記事が参加している募集

忘れられない先生

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?