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バイバイ夏休み


渋滞が嫌いじゃない、と伝えて共感された記憶はあんまり無い。
私だって、トイレに行けないことは不安。高速バスの臨時増便には慣れない。にじり寄ってくる緊張で手に汗握ったことなら何度だってある。
「けど、そういうのって総合的なことだと思うの。総合的に嫌いじゃなければ、嫌いじゃないって言っていいでしょう?」
君ではなく、君越しに見える太平洋に焦点を合わせながら、なんか違う、思ってたこととちょっと違う、と気がついて、さっきまでの楽しさが急にどこかへ散らばった。
「うん、そうだね」ってきっと適当な相槌を打つ君は相変わらず、渋滞の先をぼんやりと眺めている。

国道134号線の渋滞が好きだった。
だって、隣には太平洋。

私の育った小さな町にも海があった。
工業地帯で、海沿いは砂浜じゃなく、広大な埋立地が続いていた。
穏やかな海の向こう岸には同じ日本の陸が待っていて、そのことに、寛ぎを感じる人と退屈を感じる人がいる。相容れないふたつの感性を、未来を、息を潜めて別離が見守るのだ。
それでも、みんな混じり合って暮らしていた。昼も夜もひと気のない埋立地に在るのは、ゴミさえ捨てなければ何でもしていいよ、と両腕をひろげて待っていてくれるような、寛容と心許なさ。その両方に甘えながら、お菓子を買って制服のまま寄り道をした春。クラスメイトたちとの草野球で、気になる男の子と同じチームになって、青春の真ん中ではしゃいだ夏。堤防に座って、友達のお兄ちゃんの煙草を、世界を変える気持ちで吸ってみた秋。自転車で迎えに来た恋人と、「誰もいない町のイルミネーション」と言って、夏の残りの花火を終わらせた冬。
あの埋立地に残したものは、確かにあった愛しい時間。
それでも、もっとどこかへ行ってみたくて、我慢なんて少しもできなくて、「行かないで」って言ってくれた勇気に「ごめんね」って返すしかなかったこと。

君の車に乗っていたら思い出した。
君のそばに、渋滞と青い太平洋があるから。
ねえ、やっぱり太平洋っていいね。
それと君の運転けっこう好きだよ。

由比ヶ浜で車を降りると、この間までの騒がしさが嘘のように人もまばらで、夏なんて始めからなかったかのように片付いてしまっていた。
肌は変わらず汗を吐き出すのに、見渡す限り夏の終わり。

極自然に差し出された手を、惰性混じりに繋いで歩く。
サンダルに忍び込む砂は相変わらず不快なのに、引き返さずに進みたくなる気持ちはなんだろう。

8月31日だけに存在する切なさが身体を満たして立ち止まった。
そのまま座り込んで海を見つめる。
ちょうど夕陽の時間になっている。
「ああ夏が。終わってゆく」
「今年もいい夏だったな」
「私はずっと退屈だったよ」
「ひでぇ」
前を向いたまま君が苦笑した。
「未夏子は夏が元気だよな」
「そうかな」
「うん。そういや夏が好きって言ってたよな」ちょっと違う。夏休みが好きとは言ったけれど、季節でいえば冬が好きだ。
こんな些末なズレについて、いちいち説明したくなるときがある。
してみようかな、と少し思う。言ってみて、しかし面倒くさそうにされれば傷つくのだ。

結局黙って海と向き合って座ったまま、散歩に来た人の連れている犬を目で追った。その先で、男の子たちがはしゃいでいる。なんとなく眺めていると、ひとりがみんなの輪から抜け出し、海に向かって、
「バイバイ夏休みー!」
と叫んだ。
散歩に来ていた人も犬も、点々といたカップルも親子も君も、思わずその男の子を見る。拍手がおこる。その後で、人々は改めて海を見つめる。

幸せな瞬間だった。
夏休み最後の日に、海を見に来て本当によかった。
なんて素敵な人なんだろう。ほんの数秒間だけだったけど、世界でいちばん好きだと思った。
着ていた服も声も明日には忘れるけど、この場面はきっと忘れない。

ありがとう。バイバイ夏休み。















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