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G一周忌:正座する美しきくるくるパー

スウィングで僕を見かけるたび、Gさんはわざとらしく残念そうな表情を浮かべながら、素早くくるくるパーを宙に描き出した。


くるくるパー。


当たっている。申し分なく正しい。100%認める。

だけど同時に僕には僕の言い分、いや礼儀というものがある。

右手の人差し指をピンと伸ばして丁重に2回、小さな円を描き、そしてできるだけ分かりやすく、ハッキリと右手を開き、パーの形を作る。Gさんを真っ直ぐ見つめ、「伝われ」と念じながら。


くるくるパー。


少々独特なこの挨拶の往復には、なかなかに深い意味合いがあったように思う。

僕たちは互いを傷つけ合っていたわけではなく、むしろお互いの、この世界における正確な立ち位置を確認し合っていたのだ。


くるくるパー。


あなたよりは少しだけマシだと思うけれど、そこは双方譲りがたいけれど、今日も明日も、過去も未来も、完全無欠にくるくるパー。残念だけど、まあ仕方がないよね。お手上げして、受け入れ続けるしかないよね。

そこには他の誰とも交換しようのない、不思議な公平さがあった。

1年前。現実的な色合いを持って刻々と近づく別れの時を前に、なぜこんなに悲しいのだろうか? とパートナーに尋ねたことがある。

彼女から返ってきたのは「当たり前よ。友だちだからよ」というシンプルで明快な答えだった。

そう言われるまで気づけなかった。

年も立場(それがなんだって言うのだ??)も随分と違ったが、確かに僕と彼とは公平な友人同士だったのだ。

時折キッチンで膝を抱え、狂ったように嗚咽せざるを得なかったは、彼が稀有で特別な友人だったからに他ならない。

稀有で特別な友人を間もなく失くそうとする時、人は大声をあげて泣くものだと思う。

泣いてもいいのだと思う。

Gさんとはよく遊びに行った。

一体どのように予定を調整したのだろうか? それが僕からの誘いの場合は電話を使い、彼からの誘いの場合は手紙であったような気がする。まあ、どうでもいい。

木下大サーカスや都をどりや宝塚歌劇を一緒に見に行き、最初だけ盛り上がり、すぐに飽きて隣同士並んでグーグー寝た。

良いも悪いもない、ただの思い出だ。でも楽しかった。

スウィングは元より、元気な頃のGさんが毎日のように訪れていた(京都市左京区にある)ショッピングモールでもバッタリとよく出会った。

そんな時にはスウィングでの演技じみたくるくるパーではなく、互いにオッスと手を上げ、普通に挨拶を交わした。

面白かったのは「何してんの?」とか「買い物?」とかではなく、それが休日の昼間であろうとどのようなタイミングであろうと、さっきまで一緒にいたみたいな会話が突然はじまることだった。

「○○さんはなあ、○○さんと……」「あれ、どうなっとんの?」「ワシは○○は好かん」「〇〇知っとるぅ??」。

それはそのショッピングモールに古くからある(今でもある)、レコードショップ『HMV』の中でも同じことだった。

でもその日の出来事について、思い出すたび思わず吹き出してしまうのは、それがあまりにも「稀有で特別な」光景だったからだ。まだGさんがそこそこ元気に歩き回れていた頃のことだから、10年以上前のことになろうかと思う。

僕がフラフラと店に入ると、すぐに年の離れた友人の姿が目に入った。

間違えるわけがない。白髪。無駄にハンサムな顔。いつもの服。


くわえて彼は、レジの真ん前で、正しくレジに向かって正座をしていた。


その傍らにはレジ待ちをする客たちが並び、レジの向こう側には忙しそうに働く店員たちがいた。

あまりにも「稀有で特別な」光景だった。あまりにも普段どおりのレジ前の風景の中で、我が友人だけが、ある意味神々しく完全に独立していた。


くるくるパー。


同時に無関心なくるくるパーたち。けれど皆若い。

レジ前できちんと正座する謎の老人を目の前にした時、一体どう対処していいのか分からず、かえって普段どおりに振る舞いたくなる気持ちは分からないでもない。あるいは誰かからの当たり前の親切な一言を、老人はめんどくさげに一蹴したのかもしれない。


僕が神々しさの中に遠慮なく足を踏み入れ、笑いながらオッスと声をかけると、軽く右手を上げてオッスと返す友人。

そして「○○さんはなあ、○○さんと……」「あれ、どうなっとんの?」「ワシは○○は好かん」「〇〇知っとるぅ??」。

顔色は特に悪くない。歩き疲れたか腰が痛くなって、そこに適当なベンチなりがなかったから、束の間の休憩をしていたのだろう。

レジの真ん前で、正しくレジに向かって正座をして。

それからどうしたのかはよく覚えていない。さすがにほったらかしにはしなかっただろうから、近くのベンチに移動してGさんが好きなミルクティーでも買って飲んだか、どこかで一緒にご飯でも食べたか、家まで送ったか。

2022年9月6日。Gさんが逝ってちょうど1年。

僕はこんな、馬鹿みたいに美しい思い出に浸り、笑い、少しだけ泣いた。

家のささやかなリビングルームには、遺品として受け取ったタオルを飾り続けている。

稀有で特別な安っぽいタオル。HAPPY VACATION。

現実を遠ざけ、幸せな気持ちにさせてくれる。


くるくるパー。

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