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ルール?展に行ってきたぜ! 其の参? -ルールを疑う「ルール?展」を疑う-

<若者だらけすぎる>

時間的にも物理的にも(この3回続いたレポート的にも)遂にやって来た21_21 DESIGN SIGHT(以下、21_21)、「ルール?展」。

京都人力交通案内ユニフォームに着替え、噂通りにカッチョいい安藤忠雄建築による建物内にズンズン入ると、場内は既にたくさんの若者たちで賑わっている。11月12日。平日、金曜日。しかも事前予約制。聞いてはいたが、土日はもっとエラいことになっているんだろうなと考えると、その盛況っぷりは聞きしに勝るようだ。

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そしてそんな<インスタ映え>に興じる若者たちを生で見ることを今回の楽しみのひとつにもしていたのだが、人前で堂々と、自己陶酔的なポーズをキメまくるその姿に、シンプルにスゴい……と感嘆してしまった。オラだってできるもん! とうっかり真似をしてみたら、めっちゃくちゃ恥ずかしかった。でもちょっとだけ気持ちいい感じがした。

が、この若者ばかりが大挙して来る、ある種不自然な状況はもう少し何とかならなかったのだろうか。

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<ルールは今、産業や社会構造の変化、テクノロジーの進化などに伴い、大きな転換を迫られています。実態が捉えにくく形式的になりやすいものだからこそ、私たち一人ひとりが身の回りにあるルールを意識し、その存在を疑い、自分のこととして柔軟に考えることが求められています。多様なルールと交わり、日々更新し続けることで、私たちの社会とその未来の可能性はよりオープンで豊かな方へ押し広げられるのではないでしょうか>

これはWEB上で公開され、会場では<ごあいさつ>として掲示されている文章の一節だ(軽微な違いあり)。本当にその通りだと思う。自分がこれまで感じ、考えてきたことが整理され、大きく広がったような感覚すら覚える。

場の性質や企画、展示内容によって年齢層が偏るのは自然なことだ。でもルールって老若男女を問わず、絶対的に関係しながら生きているものだし、ハッキリ言って世に数多ある下らない、意味すら分からないルールの数々は<おじさんたち>(僕ももうそのひとりなのかも……)がこしらえ上塗りし続けてきたものだろう。そのルールを問い、揺るがそうとする場に、権威に居座る<おじさんたち>はいくら訴えても来ないのかもしれない。でも、この試みを幅広く届けるための広報なり戦略なりは、もっとあっても良かったんじゃないか。

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僕は終始会場で、いつ爆発するか分からないQ氏の精神状況、そしてXLのケツの穴を気にしていた(→)。

加えて六本木及び21_21から醸し出されるお洒落感に沼田君はすっかりメンタルをやられ、明らかに体調を崩していた。

アートにもデザインにも、もちろんお洒落感にも結構強めの排他性が伴う。そんなことはないと言いたい人が大勢いることも理解できるが、ここは理屈ではなく「そうなのだ」と断言したい。だからこそスウィングは常々、誰もが安心安全な<ダサさ>をプロデュースしている。高くもないのにうっかり高くなってしまった物事の敷居を下げることを、いつも必死でやっている。

偏りのある場に、偏った世代の人たちがやって来て、普遍性の高い展示を見ていた。

いくらそこに大切な言葉や勇気ある試みがあっても、それが具体的に、少しでもマシな社会や未来に繋がるとはどうしても思えず、何かがただただ「消費」されてゆく空気を強く感じざるを得なかった。

でもその理由は「偏り」だけではない。

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<思想を本物にするのは?>

<ルールは何かを管理したり支配するためのモノではなく、むしろ自由を拡大するための装置である>

これは会場にあったものでなく、ルールについての僕の基本認識である。そしてこの認識を元に、スウィングでは具体的な種々の取り組みを進めてきた(それを文章に書きたい気持ちがずっとあるが、まだそこまでいけていない)。その結果、やっぱり!? と感じることが圧倒的に多いので、少々ヤバいとも感じている。それは何かしらの勘違いを起こしはじめている合図でもあるからだ。

が、<ごあいさつ>同様、展示の導入部分に掲示されたこの文章にも思わず胸がときめいた(オンラインドキュメントでも読めます! →★)。

<ルールは、あなたを縛るものではなく、あなたがこの社会で自由に生きるために存在します。

この展覧会は、あなた自身の判断と責任で展覧会に関わることができる余白を残しています。

参加しないことも自由ですが、参加することで、この展覧会をより実感をもって楽しむことができるかもしれません。

余白は、あなた自身で判断して、危ないところは自分で見極めて楽しんでください。必要な場合は、他の人と譲り合ったり、話し合ったりしてみましょう。>

そうそう!! 冒頭とかほぼ一緒じゃない?? 

そしてこうした現状認識と実験精神の匂いを感じたことこそが、この「ルール?展」に参加を決めた最も大きな要因なんである。

でも経験上、文章(言葉)ってほとんど読まれない。

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スウィングの展覧会でも必死に書いた文章がガシガシ素通りされてゆくのは悲しいかな、当たり前の風景だ。だからこそ現場が、そこに盛り込んだテーマや思想を具体的に体現する必要性がある。

その手法は様々だ。闇雲に話しかけたり、押しつけがましくすればいいってもんでももちろんない。でもだからこそ、そもそも正解のない試みを手探り手探りやるからこそ面白い。そうしないと場も人も生きないし、思想は中身の伴わないウソになる。ウソにウソ以上の力はなく、それゆえリアルな現実に反映する力も、ましてや現実を変える力なんて持ち得ない。

これは何も展覧会に限ったことではなくって、たとえば大層な理念を掲げる企業に対し、ウソ言ってんじゃねーよ……と白々しく感じたことは誰にだってあるだろう。立派そうな、でも空っぽの言葉。残念ながらただの記号に貶められたそんな言葉たちがこの世界には溢れている。 

これまでも何度も物申してきたが、多様性も共生も社会包摂もそうだ。言うだけではダメなのだ。やらないと。具体的に。日々。それぞれの現場で。

ルール?展について言うならば、21_21 DESIGN SIGHTが、また展覧会の日々の運営に関わる一人ひとりが、先に引用した文章や<ごあいさつ>に記されたような思想やテーマ性を理解し、咀嚼し、これまでのルールや慣習を疑い、更新するための試みを実践しないことには何らの説得力も持ち得ないんじゃないだろうか。と言うか、どう考えたってそういう展覧会でないといけないはずだ。

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<監視スタッフの放つ違和感>

僕は「管理」の権化とも言える学校にこてんぱんに損ねられ、死すら選ぼうとしたこともあるせいか、管理的な空気には敏感なほうだと思う。

敏感だなんて自分で言うのは少し照れ臭いが、そういう場所に身を置くと自分の中の何かが崩れはじめ、ほとんど拒絶反応とも言える不安に包まれてしまう。

「ルール?展」会場。僕たちが遅刻したせいで(本当にスミマセン。。。)そのステージに上がることができなかったGALLERY1<あなたでなければ、誰が?>をしばし下から鑑賞し、GALLERY2へと進む。展示は盛り沢山、人も多いが見事なキュレーションと空間設計によって窮屈さは感じない。

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が、(主にQ氏のメンタルを適宜見極めながら)ゆっくりと歩を進め、次第に全体が見えてくると徐々に違和感を感じはじめる。一見開放的で自由な空間にチラチラと見え隠れする、どこか不穏なもの。

最初はなんだか分からなかったが、それが会場のあちらこちらに配置された監視スタッフであることに気づく。

残念ながら多くの美術館やギャラリーには、訪れた人がその場を楽しみ、何か新しい力を得るために働きかけるのではなく、ただただ「やってはいけないとされていること」を取り締まるために目を光らせ、心を殺し、動く人たちが大勢いる。

けれど今回はそれではダメなはずだ。意図して残された<余白は、あなた自身で判断して、危ないところは自分で見極めて楽しんでください。必要な場合は、他の人と譲り合ったり、話し合ったりしてみましょう>。ここはそのための場なんである。

じゃあ何を「監視」すべきなのか? ただでさえ恐ろしい響きのするこの言葉の持つ規定値をどう変換できるのか? 

考えただけで楽しく、やりがいがある……と僕は思う。規模は全く違えど、スウィングの展覧会だって企画の趣旨に合わせたスタッフの在り方や振る舞いを毎回確認し、修正を繰り返す。難しいし正解もないが、だからこそ楽しく、現場を生きたものにできる。

でも彼らは、会場の雰囲気に馴染んだポップなデザインのユニフォームを着てはいるが、(「いつも」を知らずに書くが)いつも通りに、ルール?展で、ルール?展なのに、ルール違反をただ目を皿のようにして監視をしているようにしか見えなかったのだ。

違和感、そして不安。

ルール?展はその現場で、まさかその思想やテーマとは真逆の「管理」という手法を採用したということなのだろうか。

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<管理と自由>

残念ながらその嫌な予感は、僕たちの身にも現実として降りかかってきた。

京都人力交通案内「アナタの行き先、教えます。」の展示スペースには、ピーピーQ&XLの人型パネルが設置されている。インスタ映え狙い現象も事前に知っていたし、当人がそこに登場し、(絶対に映えないけど)写真撮影をすること。それが目的のひとつだった。思った以上に楽しかったし、他の来館者の微妙すぎる反応も面白かった。

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そもそもそこにあるのは見知らぬ中年おっさん2人の微妙なパネル。そこに本人登場! ……したって、おっさん2人がリアルに倍増するだけで、キャー! ともエー! とも言えない、微妙な反応しかできないのが人間の自然というもの。

でも何かが生々しく揺らぐ瞬間というのは実に、なんか、いい。

つまりはこれは僕たちなりにこの展覧会の余白を遊び、ささやかだけれど規定値を更新するための試みだったのである。

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そのうち遠巻きに見つめていた2人の方が近づいて来て、「一緒に撮ってください」となったのには驚いた。

場の雰囲気に流された、勇気あるミスジャッジに胸が躍る。

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その後はこの流れに乗って新たな実験を敢行し、パネルに興味を持ったり、写真を撮ろうとする人たちに近づき、「よければ本物と一緒に撮りませんか?」と声をかけてみることにした。ここでしか絶対にできないコミュニケーション。

でも反応はやはり微妙。基本的には楽しくワイワイ撮影できたのだが、<心の底から嬉しいわけではない>感じがビシバシと伝わってきて、僕はその感じのほうにむしろワクワクした。

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ここで気づいたのは、こうして自分が見知らぬ人に声をかけることに、全くと言っていいほど抵抗感がないこと。

これは恐らく人力交通案内によって育まれた新たな力で、特にコロナ禍以降、声をかけないと頼ってくれない日本人観光客に毎月アタックしまくっているうちに、勝手に身についたものと思われる。

経験って大事。

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ピーピーQ&XLはそろそろハッキリと死にかけていたので、次で最後にしようと決めた矢先、あることが起こった。

「ベンチに荷物を置かないで下さい」「撮影時にマスクを脱ぐのをやめて下さい」と、突然運営側から注意が入ったのだ。

監視スタッフの厳しい目は当然僕たちの振る舞いもしっかりと、特に注意深くチェックしていたのだろう。

しかし、なぜベンチに荷物を置いてはいけないのだろうか? なぜ全員が前を向いて脱ぐマスクがいけないのだろうか? しかもほんのひと時のことなのに。。。

※ 荷物についてはそもそも21_21にはロッカーがなく、尚且つコロナ禍で預かりもしていない(なぜ?)というので仕方なく持ち歩いていた。遠くから来る人も荷物が多い人も体力がない人もギャラリーにはやって来る。ロッカーがないことも預かりもしていないことも僕たちは全く知らなかった。わあ、WEBサイトを探せばちっちゃーく書いてあるが、大事なことなのでもっと分かりやすく伝えて欲しい。

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注意の理由として「他の来館者に悪影響を及ぼす恐れがある」という言葉を聞いた。

悪影響……。シンプルに怖すぎるパワーワードだ。これではまるで管理の権化、校則バリバリ、一部保護者が異常にうるさい学校と一緒ではないか。まだ生じてすらいない影響を、なぜ悪影響だなんて言えるのだろう。

それに最も大事なポイント、自ら謳った<来館者同士が譲り合ったり話し合う>チャンスを運営側が率先して潰してしまってどうする? ここは既存のルールに「?」を投げ掛ける場所であったはずなのに。

なぜ人は、組織は、体制は、画一的に、即時的に、管理しようとするのだろうか。 

答えは簡単。

そう、「簡単だから」だ。

一方、自由はとても扱いが難しい。正解がないから、いちいち問いに向き合わなければいけないし、問いの答えを探り続けなければならない。だから安直に、未来に起こるかもしれない面倒なことを予め潰しておく管理を上から行い、かりそめの安心を手に入れる。

でも現実はその正反対。相互監視の不安で不穏な社会を強化し、自分自身の自由をも奪ってしまう自縄自縛のイバラの道である。

自由とは、自分自身を生きるということだと思う。  

自分自身を生きられないと人はどうなる? 

言うまでもない。だからこそ今多くの人たちが見えない悲鳴を上げ、身を切り裂かれるように生きている。

そういう切実な現実に対峙するための、ルールを、システムを、規定値を更新するためのルール?展だと本気で信じていたのに。

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<パーテーションとお金>

8月には「おっさん2人のパネルと撮影をする人が多く、頻繁に動かされたり撮影マナーも悪いので抑止策を検討している」いう相談が主催者側からあった。抑止策とはお手触れ禁止マークやパーテーション。僕たちは正直、何がいけないのか全く分からなかった。撮影する人が多い? むしろ歓迎すべきいいことなんじゃないの? だって<そこにパネルがあったら撮りたくなる>のが人情(?)というものである。

別に倒されたっていい。何なら予め倒しておくのでもいい。そのときその場にいる人はどう動くのか、そんな風に試してみるほうがよっぽど面白いし、ルール?展の趣旨に合っている気がする。 だから「現状が問題だと思えない/そのままでいい」と返したのだが、長い会期中に損傷がひどくなるといけないという線で最終的には納得し、僕たちが案を出し、(パネルの)2人に吹き出しをつけることになった。

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吹き出しの中身は採用されないだろうな、という冗談みたいな言葉を考えたのだが、予想外に面白がってもらえてとても嬉しかった。

でも「ルール?展」なのに、おっさんの人型パネルなのに、「パーテーション」という言葉がいとも簡単に出てきたのには驚き、そのとき既に、どこか嫌なものを感じていたのである。

あれから2ヶ月、会場内のパーテーションの数はいくつになったのだろう。

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お金のことも少し書いておきたい。

そもそも僕は21_21のことも、その成り立ちも知名度もどこにあるのかもまるで知らなかった。ただ信頼するキュレーターに誘ってもらい、その企画趣旨に賛同した、それがはじまりの全てだ。

僕たちはたとえ一銭も出なくっても、むしろ持ち出しになったとしても、<受けたい/受けるべき>依頼は受ける。そもそもが幸運なことにお金を目的とした組織ではないし、個人的にはお金持ちになりたいと思った最後はたぶん12歳くらいだ(これは関係ないと思う)。

けれど公平さは求める。

お金があるのに出さないのは違うし、お金がないところから取るのもまた違う。

経験上、出展料や謝金って本当に様々だ。だから最初、21_21から提示された金額を見たときには「安……」と感じただけだった。撮影や展示物に必要な諸経費についても「出ませんか?」と相談したが、「スミマセン、予算がありません」の一点張りだった。

21_21の財政事情は知らないし分からない。でも、ほんと、具体的な数字はさすがに言えないけれど、今回僕たちが得、一方で持ち出したお金の釣り合わなさったら相当ひどく、当然ながら完膚なきまでの大赤字。単純に準備ややり取りにかかる労力と時間を考えただけでもブラックどころの話ではなく、ほとんど闇である。

それでも「やりたい」と思ったのは展覧会への、現場への信頼、それが全てだった。

が、しかし。「ルール?展」に合わせて制作したフリーペーパー『Swinging vol.30/Q&XL号』を発行する折、その発行部数を相談したところ、来館予定者数が5~6万人だとはじめて知ることになる(実際のところは未確認だが)。

ごごご5、ろろろ6万人?? 入館料1,200円?? 「予算がない、予算がない」ってどっかの政治家みたいに言いつつそのお金は一体どこに? どういう勘定? 零細NPOにはワケが分からないが、全てルールに則ってのことなのだろう。

まあ、でも、さすがに、ちょっとおかしいんじゃないだろうか?

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<Q氏の悟り>

僕がここで書きたかったのは、特定の誰かへ批判ではない。思い浮かぶいくつかの人の顔には本当に感謝の念しかない。

とりわけディレクター3人をはじめ、先の見えない荒野を行く人たちの並々ならぬ熱量であの展覧会がつくられたことは知っている。心から敬意を表する。ついでに自分たちにも。

でも残念ながらあの日あの時あの場に、本気でルールを疑い、更新しようとする人はどのくらいいたのだろうか。

管理とルールは全く違う。あの稀有な、いや稀有になり得た場は、そのことを本気で考えたのだろうか。

僕はQ氏が疲れ果て、遂に叫び出したり怒り出さないよう四六時中、気を使っていた。

どこかで「どうぞお好きに」という気持ちもあるにはあったが、できれば苦しむ彼の姿を見たくはないし、彼に向けられる白い目に出会うのはもっと辛い。

でも仮に彼があの会場内でそうしていたならば、話し合いの余地も余白も猶予もなく、真っ先にルール違反の烙印を押したのはあの彼らではなかったか。そう想像せざるを得ないことがとにかく悲しい。

組織の持つ思想、哲学、風土といったものは驚くほど隅々にまで現れ出る。

僕は若い彼らの管理的な、空虚な振る舞いが象徴するものに、「ルール?展」に漂う「消費」の空気の根深い要因を見た気がしたのである。

まあまあ過酷な旅を終えてすぐ、誰かを傷つけるかもしれない不安や間違ったことを言っているのかもしれないという恐怖にひるみつつ、でも僕はこの一連の文章を書きはじめ、生活を削り(悪い癖)、今書き切ろうとしている。

もちろんお金のためではなく、ルールを更新し、この世界に余白を生むために。

自分自身を更新し、内なる世界に余白を生むために。

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僕たちは一昨日15日(月)、72回目となる京都人力交通案内へと出動した。

本当に本当にひっさしぶりの引っ切りなしの案内(30組くらい?)でクタクタになったが、毎回がアドリブ、真剣勝負の現場はやっぱり生きている。

心地よい疲れに包まれた帰り道。このレポート前半部分の主役を務めたQ氏が穏やかに、でも唐突に言う。

「出張のことやけど、お遊び気分で行くなってことやな?」

まあ、そういうことになるね。て言うかようやく認めたね。

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