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初めての街で〜福光

【一日目】

「初めて~の街で~~」

とつい口ずさんでしまう旅路。俺はいま城端(じょうはな)線という、富山県のローカル線に乗っている。明日南砺市福光町のイベントに出演するためだ。俺は今日他予定もあったため、車で向かう他メンバーとは別に一人電車を乗り継いで向かっている。もう日も暮れてしまって、景色の代わりにポツポツとしかない街灯りを眺めながら窓際の席に座っている。ディーゼル車独特の唸り声のせいで、車内アナウンスの「次は~~」というのがあまり聞こえないから、乗り過ごしてしまわないか少し緊張感がある。こんな初めての地方電車で乗り過ごしてしまっては大変だからね。その駅にタクシーがいるかどうかも保証の限りではないし。

 「初めての街で」という曲は、永六輔作詞・中村八大作曲(あの「上を向いて歩こう」(1961)の黄金コンビ)、西田佐知子が歌うCMソングだ。1975年が最初らしい。タイトルで分からなくても「やっぱり~~俺は~~~菊正宗」はわかる人も多いだろう。少なくとも西田佐知子バージョンは2017年くらいまでは(今もかな?)使われていたようだから。ちなみに西田佐知子は関口宏の妻でもある。

 こういう歌い方を昭和な俺は「演歌」だと思って育ったが、実際は歌謡曲と呼んだ方が良いらしいというのは歌謡曲を掘り出してから知った。ちあきなおみとか黛ジュンとかいしだあゆみとか、なんなら和田アキ子でもいい、70年代のシンガーには歌謡曲のような演歌のような、区別がつきにくいものが多い。そもそも「演歌」のルーツは「演説の歌」から来たそうで明治時代からあるようだが、それは基本「政府批判の歌」だったと博識な故大瀧詠一氏も言っていた。現代でいう「演歌」は、70年代にこの手の楽曲のプロモーションにより定着したらしい。つまり「演歌」とは民謡や浪曲の影響こそあるものの、日本古来のものでは全くないし、意外と新しいとも言える。なんならばジャズよりは新しいとも言える。と色々掘っている俺は把握できていても、平成令和の人たちがこの手の歌を聴くとみな「あ、演歌だね」と言いそうな歌ではある。ビートルズもモータウンもジャズも同じく「昔の音楽」と括られるように。

 景色の見えない夜のローカル線に乗りながらそんなことを考えていると、無事目的の福光駅に着いた。ワンマン運転で二両編成だから、俺が乗ってる二両目から一両目に移動しないと降りれないらしい。ドキドキしながらドアを開けるボタンを押して(ドアを開けるボタンは押し慣れていないと緊張するのだ)、車掌に切符を渡して駅を出る。

 夜9時の福光駅の周囲は真っ暗だったが、事前に電車内で調べてて、小矢部川を渡れば何軒か居酒屋があるようなので向かうことにする。宿は関係者5人で泊まるシェアハウスだったので、何時にチェックインでもいいらしい。まず軽く飲んで、遅い晩飯を食らってからでも大丈夫だろう。

 4月の割に寒い風に吹かれながら川を渡り、まず入ったのは「たかとん」という、ドラムのフィルのようなネーミングの居酒屋だ。お客さんはテーブル席に5人ほど、カウンターに一人。金曜の夜だからか、まぁまぁ混んでいる雰囲気。俺は、カウンターの端が空いていたのでそこに陣取った。まずは生ビールを頼む。メニューは紙ではなく、ホワイトボードに手書きで書いてある。ふきのとうの天ぷらとたけのこ味噌煮、子イワシのから揚げを頼んだ。どれも美味い。特に子イワシは骨まで食べれて、風味もよく、酒の当てに最高だ。

 そうだ、酒だ。富山は間違いなく酒、日本酒だろう。ビールを一気に飲み干して、カウンターを見てみると、一升瓶が二本並んでいたので、まずは左にあった成政というのを頼んでみる。地元南砺市で山田錦から作られた純米吟醸。どちらかと言えば日本酒は苦手なんだが、ご当地で飲むと本当にスッと飲めるものだ。実際、甘い感じがありつつもスッとしたのど越し、悪酔いしないだろう味だった。次は日本酒に詳しい友人が「富山の日本酒といえばこれ!」と勧めてた青いラベルの立山を頼む。これは本醸造。辛口で美味しい。これは友人が勧めてきたのも分かる切れ味。

 カウンターにママさん、奥の厨房に大将がいる。横のカウンターのお客さんとローカルな話が盛り上がってたので、最初は会話に割り込めなかったが、カウンターのお客さんが帰ったタイミングで、ほろ酔いな俺はママさんに話しかける。明日の小矢部川のイベントに出演するミュージシャンだと自己紹介し、雑談をしていると大将もカウンターの方に出てきた。

 こういうご当地の店で、初対面の人と雑談をするときは、自分のことや時事ネタではなく、「この街はどういう街なのか?」「この店はどういう歴史を持つ店なのか?」「大将・ママさんのキャリアは?」などを聞くのが好きだ。今俺がいる場所が、どんな時の流れにいるのかを僅かでも知れることで、グッとその街に近寄れた気がするからだ。

 ママさんは40年前に、世界遺産の合掌造りの古民家で知られる白川郷から大将のところに嫁いできたそうだ。つまりこの店「たかとん」も40年程の歴史があるという。そんな話を入り口に色んなことを聞き出した。俺はそういう時の聞き上手っぷりに自信がある。聞き出した話を列記するとこんな感じ。

*福光は海辺の富山市や高岡市から遠く、むしろ山を越えればいける金沢の方が近い。実際、昔は金沢側と同じ加賀に組み込まれていて、加賀百万石のなかの「隠し米どころ」と言われていたらしい。
*いずれにせよ海から遠いので、昔は海産物は生では食べれなかった。そこで「色づけ」と言われる、味付けを施して食べたり、「よごし」と呼ばれる、煮込みにして食べる方法がこの地方の伝統だったそうだ。
「色づけ、よごし、っていうネーミングがいいですね?」と言うとママさんは笑っていた。
*ひょっとしたらその「色づけ」というネーミングの由来かもしれないが、この街福光は遊郭として栄えた街だったそう。まさに「色」と「よごし」の交わる街だった訳だ。1900年頃からは富山県から「貸座敷営業免許地」(つまり正式な赤線地帯)という指定も受けて、戦後に廃止されるまで、10軒以上の貸座敷、娼妓は200人以上もいたらしい。江戸時代ならいざ知らず、その頃に繁盛した理由には日清戦争(1895)、日露戦争(1905)などがあり、日本軍の訓練場もあったからという話も。しかもいずれの戦争も日本が勝利したので、より、盃を掲げ、夜を楽しむ場所として機能したんだろう。

 これだけでもう何百年もの歴史を知ったことになるよね。そんなスケールの時の中で今この街福光にいる、と思うだけで酒が美味くなる。実際、川を渡るときに見た川沿いの建物がまさに旧遊郭的な佇まいだったし、この店のある路地も「昔は繁盛してたんだろうな」という雰囲気が満載だったことを思い返していた。

 そんな濃厚な話をした後、同じ宿に泊まる他出演者と合流してもう一軒飲みに行った。「さかえ食堂」そこではひたすら日本酒の話を聞き、オススメの酒がどんどん持ってこられて、ライブ前夜なのになかなかの日本酒摂取量となったのでした。その中でも山廃仕込の「三笑楽」は俺好みで美味しかった。

【二日目】

 初日だけでもこの街を充分満喫した感があったが、まだまだ続く。なにせ二泊三日だからまだまだ時間があるのだ。ライブイベントは昼間なので、その前後が空いている。天気は快晴。意外と昨夜の酒は体に残っていない。やはりご当地の酒を飲むのは体にも優しいってことかもしれない。午前中のリハーサルを終え、昼食は単独行動となったので気になる蕎麦屋、、、と思ったら超満員だったので、うどん屋「どんたく」で何故かカレーうどん。イチオシメニューに「カレーうどん」と記してあるとつい頼んでしまうタチなのでね。実際にスパイシーで美味しかったカレーうどんを食し、いよいよ体も目覚めてきたところでライブ本番。「千本桜を見ながらの音楽イベント」というコンセプトのイベントではあったが、ここ数日寒かったせいか、残念ながら桜はまだほぼ蕾。でも快晴の川辺の屋外ステージライブは本当に心地よかった。この場所に来るきっかけとなったシンガー安次嶺希和子には感謝しかない。そんな多幸感に包まれてライブは終了。そして時間はまだ16時前。よし!散歩しよう!

 遊郭跡地の香りを色んな通りに感じながら、街の中心に近いところにある宇佐八幡宮を詣でたところで目についた看板に「棟方志功記念館ー愛染苑」とある。「版画家の棟方志功?え、この街になんか縁があるのだろうか?」と思って行ってみると、ギリギリ閉館前に間に合った。客は俺一人。派手なオレンジ色のパーカーを着た俺を快くスタッフのおばさんが案内してくれた。棟方志功は東北出身なので福光に血縁はないのだが、第二次大戦中に疎開してくる形でこの地に何年か住んでいたそうだ。その、滞在中に残した作品などを展示する場所だった。中にはトイレの中の板壁に描かれた作品もあって「まるでマルセル・デュシャンじゃないか」と思ったりしつつ、福光という街と棟方志功の関わりの歴史をおばさんから伺う。

 話を聞きながらふと思い出したのは、長野県の小布施という街に何故か葛飾北斎の記念館があったなぁ。。。ということ。時代は江戸時代だが、そこも、北斎が一時期滞在したことがきっかけで、その街に残された作品を中心に展示と解説をする記念館だった。あの街もよかったな。あ、あそこの日本酒も良かったな。

 話を戻そう。棟方志功が福光に来たきっかけは、光徳寺という寺の住職と繋がりがあってのことだと聞いた。そして「その光徳寺は芸術に理解のある、展示物も面白いお寺ですよ」という話も聞く。同じことを音楽イベントの関係者からも聞く。それは行っといた方が良さそうだなと思い、今日はもうそろそろ陽もくれるので無理だとして明日、東京に帰る前に行ってみることにした。そんなこともあろうかと、新幹線も自由席にしておいたしね。

 この日は夕方にスタッフおすすめの「だるま寿司」に行き、ここもまた面白い大将がいて、街の歴史を沢山聞いて、美味い寿司を味わった。中でも変わり種の「干し柿と味噌の握り」「天然の激辛ワサビの巻き寿司」が強烈だったね。大将と記念写真を撮りつつ、夜はイベントの打ち上げ会場のお好み焼き屋へ(なぜにお好み焼き屋?笑)。そして最後は再び「さかえ食堂」に行くという胃袋泣かせな1日となってしまった。昨夜と同じ山廃仕込「三笑楽」を頼んだら、残念ながらもう売り切れだったけど。

【三日目】

 爽やかな寝起き。今日も快晴なようだ。なんなら昨日よりも少し暖かい気がする。朝10時に、車で東京に帰る人たちを見送って、その後向かうはもちろん光徳寺。なんとなく地図を見て、3,4kmくらいの距離なので歩けると判断。街中から徒歩でゆっくり一時間くらいかけて到着。小さな山を背に光徳寺はあった。多分この低い山を超えていけば金沢なんだろう。寺に入るといきなり謎の、壺だらけの境内。それも和物ではなさそうな壺も置いてある。なんならば高値で売れそうなものまで、枯山水の石の役割がごとく並べてある。いい感じだ。でも、これだけなのか?これを皆さんがいいと言ってたのか?と思いながら帰ろうとしていたのを踏みとどまり、境内をもう少しうろちょろしてみると「内覧料500円」と書いてある札を見つけた。そっか、中を見れるのか。観光客が皆無な中、入れるのか分からないまま扉に近づくと、開いた、そしてベルが鳴った。バタバタと木造の階段を降りる音がして、俺と同じくらいの年齢かと思しき女性が出てきて「内覧ですか?」と聞いてきた。「はい」

 500円を支払い、ひんやりした館内に飾られたあらゆる種類のアートやお皿などを眺めながら、みしみしと音を立てながら奥に向かってゆっくり歩く。奥には棟方志功屈指の名作とされる「華厳松」が展示してあるらしい。そもそも棟方志功は女性を描いた版画を見たことがあるくらいで全く詳しくないし、正直好きか嫌いかの天秤に乗せたこともなかったから、ただただ無な気持ちで解説を読みながら作品を見ていった。格言と挿絵みたいな作品があって、言葉が好みなものはあった。
「遺憾ナコトニハ ホントウノモノハ 
大抵ハ  イタマシイ中カラ 生マレルモノダ」

 覚えてるのはこれしかないが、他にも面白い言葉と作品に溢れている場所だった。奥にあった「華厳松」もエネルギーに満ち溢れていてよかった。が、が、やはり俺は音楽家。目についてしまったのは本堂に置いてあったヤマハのグランドピアノだった。
「何故ここに?」
「音楽イベントもやっているんだろうか?」
そんな??と共に内覧も最終地点、入り口そばの部屋に戻ってきた時に更に唖然としてしまう。壁には高いところまでアフリカのものと思われるお面が飾ってあり、テーブルにはカリンバやカウベルが置いてあり、更には見たことのないオルガンやアップライトピアノまであるじゃないか。アップライトピアノのブランド名は初めて見た"Delavanti & Co. London"イギリス製か。鍵盤の上には”Iron Frame Check Action”とある。鉄のハンマーなのか。
「これは触ってみたい」

 入り口のところに佇んでいた受付女性に声をかける。そして自分がピアニストであることを伝え、少し触らせてもらえないか?と言うと快諾してくれたが
「ただ、これは仕組みが古すぎるので調律できる方がいなくて、気持ち良い音は今は出ないと思います」
弾いてみると確かに全部の音が半音以上低くなっている、つまり弦がかなり伸びてきている状態で調律は全くなってなかった。実際19世紀の、ともすれば200年近く前のピアノだそうで、状態が良ければどんな響きだったんだろう?と悔しい気持ちになったところでふと思って、言ってみた
「本堂にヤマハのグランドピアノありますね?あれは時々使ってるってことですよね?弾いてみてもいいですか?」

ありがたいことにそれも快諾していただき、二人で本堂の方まで移動する。グランドピアノは普通3本の脚で支えられているが、そのピアノはそれぞれに二本ずつ脚があり、計6本の脚で支えられていた。これも100年近く前のものだという。先代の住職が音楽好きで、世界中の楽器を集めていたそうで、そんな流れでこのピアノは光徳寺にやってきたのだそう。流石にヤマハのグランドピアノはライブで時折使われているだけあって、調律はちゃんとされていた。ぽろんと弾いただけでなんと心地よいことか。木造の本堂に優しく響き渡る。俺とその女性だけの音楽時間。

「ちゃんとした方が弾くと、本当気持ちいいですね」

 そう言われるとピアニストとして本望だ。それからしばらく立ち話で色んな話をする。そして最後に
「今回初めて福光に来ましたけど、本当にいい街ですね。色々古いものも残っている感じも含めて。」
「他から来られる方は皆さんそう言っていただけるんですけど、ここで育った私としてはこれが当たり前なんですよね。こういう街のどこがいいんですか?」
 お、鋭い切り返しだ。咄嗟に俺も答えられない。でもこう言うやり取りは大好物だ。「いい街ですね」「ありがとうございます」というだけだとサラッとしすぎていて、すぐに消えてしまうやり取りだろう。少し考えて俺はこう答えた。

「色々なものが残ってる街ってことは、時代に取り残された街と言えるかもしれないんですが、時代に巻き込まれていない街という見方も出来ますよね?例えば自分が今いる東京は最先端の街かもしれないけれど、マーケティングだかなんだかで日々慌ただしくて、かつ「人間による人間のための場所」にしか感じられないんですよ。ところがこういう街だともちろん自然も沢山あるし、それだけじゃなくて昔の人間の営みの残骸も明確に残っているでしょ。そういう場所にいると、なんていうか「地球に生きている」「大きな時の流れの中に生きている」って当たり前のことを当たり前に確認できる。そこがいいんですよね。都会の人間が病んでることを自覚できる場所というか、、、」 

「なるほどです。私は逆に時間がゆっくりの場所にずっといるので、今は新幹線も開通してるし、時々東京とかに行ってみようかと思い始めてたんですが、実際東京に行ってみたりすると私もこの場所福光を再確認できるのかもしれないですね。」

 素敵なやり取りだった。このままずっと話していたいような空気になりそうだった。何ならば受付女性も最初は無口だったのがどんどん俺に話してくるようになっていた。名残惜しかったが、わざと時計を見て、「そろそろ行きますね」と言って、光徳寺を後にした。(「ああ責めて名刺ぐらい渡しておけばよかった」と思ったのは帰りの電車の中だった。)
 
 爽やかな風に吹かれながら、また歩いて福光の街まで戻る。宿に預けていた自分の荷物を引き取って、小矢部川を渡って福光駅に向かう途中、川辺の桜をみると少しだけ蕾が開き始めているのに気づいた。


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