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文章は反射神経で出来ている

 文章は反射神経で書いているとはよく言ったもので、実際、机に座るまでは何について書こうとか全く考えない。今だって”反射神経”という単語を目にしただけでこの文章を書き始めたのだから、文章は反射神経と自己主張しても差し支えはないだろう。
 しかし、本当にそれは合っているのだろうかと疑問に思う。書き始めると此れも書こう在れも書こうと思いつき拵えているのだが、其れには文法とか語彙とか前後のつながりだとかの方法を駆使したうえで文章として思いついているのではなく、何となくとした抽象的なものだけが浮かんで其れを入力している。此れは”文章を書いている”というよりは、”出力をしている”状態ではないのだろうか。
 ”出力をしている”というのは、食べ物を出す際に、これは美味いぞと言って未調理のキャベツ一玉を出しているようなもので、一方、”文章を書いている”というのは汁が染み込んだロールキャベツという料理を出しているものだ。つまり、今読んでいる人に対して僕はキャベツ一玉を思いっきりぶつけているようなものだ。屈託のない笑顔で投げつける。緑緑しいキャベツを。顔面に。
 「文章の書き方を教えてください」と言われた。一瞬なんのことだかわからなかったが、職場で要請されたので仕事に関わることであると理解できた。思えば文章に関わる仕事をしているのだった。それが例え広告に関わる人に媚びた文章でも、文章は文章。書き方って何だっけと思いながら、型に嵌まった文章を教えた。
 型に嵌っているのだなと思った。文章の書き方というのは結局、自分の型を見つけることではないだろうか。何回と書いて思うのだが、型に嵌めて文章を終演へと導いている気がする。自分なりの起承転結があり其れに従って完成させた達成感に浸る。仕事で関わっている広告の文書だってそうだ。仕事に正解はないとは言いつつも、それぞれ自分の型を所有しておりその型に嵌めて完成と相成る。そして達成感の湯に浸かる。
 この型ができるのは、具体的な成功例があるからに他ならない。つまり、自分の型というのは自身が思う勝ち筋のようなもので、この型に嵌めることで概ねの成功することができるし、場合によっては報酬を得ることができる。この成功というのは文章の完成で得ることができるが、報酬というのが別のもので得ることになる。
 報酬というのは別の言葉で表すと、反響という言葉で表すことができる。もっと具体的なもので言うと、金やPV数、いいね!といった数字で表すことができる。この報酬が身に入れば入るほど、自身の型への信頼感は絶対のものになり、なにかを手につけるという際には必ず用いることになる。
 そう考えると、僕の”出力をしている”状態は絶対的な信頼を置いている型なのだろう。文章を書いているのではない、出力しているのだ、とナルシスティックに叫んだとしても、両手に抱えるのは生のキャベツだけ。これが勝ち筋なのだろうかと自分の勝ち筋を思い出してみたのだが、此れと言って勝った経験を思い出すことは出来なかった。あがががが。


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