昔友達の課題代行した時のやつ

 昔友達の課題代行した時の奴をせっかくなので貼る。
テーマは西田幾多郎の純粋経験について好きに論じろっていうものだった気がする。適当に純粋経験と宗教というテーマでこじつけて書いたやつ。
レポート代行はいつでも受け付けてます。相応のお金とか物とかくれたらやります。

 主客未分の「純粋経験」はまごう事なき哲学の問題であるが、同時に宗教の問題である。というのも、宗教の領野においては、キリスト教、仏教問わずして全き他者との合一を果たそうとする試みが行われていたからだ。本論では、西田の「純粋経験」概念を足掛かりとし、宗教現象学的な「ヌミノーゼ」概念の一例との比較、分析を端的に行うこととする。
 「ヌミノーゼ」という概念は、R.オットーが提唱した概念であり、「聖なるもの」との遭遇の経験を指す。「聖なるもの」は、絶対的他者、或いは、「究極的実在」(P・ティリッヒ)とされるような、超自然的な力を所持しているものである。このような「聖なるもの」との遭遇経験は、「畏怖」と「魅惑」の二律背反的な感情をひきおこすとされる。
こうした「ヌミノーゼ」的な経験は、歴史上しばしば経験されてきた。そこで、その具体的な例を日本の仏教における捨身行の一例から見てみたい。
日本の中世においては、南方にある「補陀落」という浄土へと向かうとする、「補陀落渡海」という捨身行が行われていた。補陀落渡海は、それを行おうとする行者を屋形船に乗せ、そのまま海に流す試みである。場合によっては、屋形をことごとく釘で打ち付けて出られなくしたり、108の石を体に巻き付けたりして、行者の生還を防止したという。藤原道長『台記』には補陀落渡海を行った那智の僧についての次のような記述がある。

 彼は現身のままで補陀落世界に渡りたいと思い、小舟の上に千手観音を造って梶を持たせ、補陀落山に向かって祈ること三年間におよんだということです。その那智僧が風をおこす祈祷を七日間おこなうと北風が吹き出し、彼はよろこんで船に乗り込み、南方に向かって出船しました。……その後七日間、北風はやむことはありませんでした。北風を受けて一僧は無事に潮に乗り、補陀落渡海の願は叶えられたのであろうと思います。

(根井浄『観音浄土に船出した人びと』吉川弘文館、p.37の現代語訳を参照した)

 こうした記述はあるものの、奇妙なことに、「補陀落」という浄土は具体的にどこにあるのか、そして、そこへ至るまでの途はどのようなものなのかが詳らかとなっていない。また、補陀落渡海の結果は語られず、重要視されない。補陀落渡海を行った人々は、恐らくそのことに頓着していないのである。
 むしろ重要なのは、観音にひたすら請願し続けた彼らが、渡海を行う際に、己の精神を観音との結によって貫くことである。「この世」とは異なる異相へと、己を溶かし込み、存在を変容させる。彼らは、現身のまま「あの世」の存在となり、「補陀落」へと至るのである。「補陀落」が空間的にどこにあるのかは重要ではない。「あの世」の存在と「なること」が重要なのだ。ここに、仏教における「究極的実在」たる観音との結の体現が、つまり、「ヌミノーゼ」が果たされるのである。
 しかしながら、この補陀落渡海における「ヌミノーゼ」の内実は詳らかにされなかった。補陀落渡海からの稀有な帰還者とされる日秀という僧も、その経験の内実を具体的には語らなかったという。というより、反省され、語られる「ヌミノーゼ」は真の「ヌミノーゼ」ではないのかもしれない。それはあたかも、「純粋経験」が反省された途端、「純粋経験」ではなくなってしまうかの如きである。
 さて、補陀落渡海について説明を行ってきたが、こうしてみると補陀落渡海は、「ヌミノーゼ」であり、同時に「純粋経験」であるように考えられる。かれら仏教者にとっての観音はまさしく西田にとっての「統一的或者」であると言え、そして、彼らが「あの世」の存在と「なる」、「補陀落」という異相はまさしく我々の経験しようがない背面の部分であると言えよう。
 補陀落は、「あの世」の存在と「なること」、或いは、「主客未分」の存在と「なること」の異相に出現する背面であったのだ。繰り返すようだが、こうしてみるとその内実が詳らかにされなかったことは当然のことである。なぜなら「補陀落」という経験は、経験でありながら、どのようなものかわからない、対象化できないものであったからである。そしてまた、彼らに「補陀落」という「純粋経験」が開かれたことは奇妙なことではない。釘によって打ち付けられた屋形船に乗り、108の石に巻き付けられた彼らにもはや、「前面」は存在しなかったからだ。「生」という「前面」を断ち切られた彼らに、「補陀落」という「純粋経験」が立ち現れたことは、必然だったのである。


 (背面だとか前面だとかは多分西田の用語なんだろうけどいまいち覚えていない。)

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