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訂正じゃなくて、修正の人生を歩む。

わたしは今の仕事柄、割と「言葉の定義」には気を付けて日々生活をしている。

「押印」と「捺印」とか。
「回覧」と「回付」とか。
「発行」と「交付」とか、とか。
(気になる人は調べてみてね)

たぶん皆さんも、日頃の生活の中でそれなりに耳にする言葉ではないかと思うが、その使い分けが正しくできていますか?と問われると、なかなか自信を持って答えられる人も少ないだろう。

先日、とあるネットの記事で…
「よろしく"お願いいたします" の "いたします" は、漢字表記(致します)ではなく、ひらがな表記(いたします)が正解である」なんてトピックが話題にもなっていたが、おそらくこういった言葉の曖昧なミスは、もはやミスとすらも思わず「どっちでもいい」「なんとなく伝わればいい」と思っている方が大半だと思う。ゆえに何を基準として「正解」とするかはなかなか難しい。言葉は正しく使えるに越したことないが、それを逐一指摘していたら、今度は人間関係のほうが破綻してしまう。言葉の使い方としての「正解」を取るか、対人関係としての「正解」を取るか。そのバランスの上で、わたしは日々仕事をしているのだ。


そんな中、こればかりはたとえ対人関係に亀裂が入りそうになったとしても、心を鬼にして正さなくてはならないと思う表現がある。
それが「訂正」と「修正」だ。

元あったものを、別のものに直す、という意味ではどちらも同じ意味なのだが、「訂正」は「誤りを正す」ことを指し、一方「修正」は「誤りを改める」ことを指している。

つまり、これを実際の仕事に落とし込んでみると、
「訂正」=最初の記載がそもそも間違っていた
「修正」=その時は正だったが、後々誤りになった
という違いを含んだ言葉になるわけで、そこには今に至るまでのプロセスを明確に表現させてしまう力を秘めているのである。したがって、こればかりは正しく使い分けておかないと、契約事において、そこに書かれた内容がまったくの別物として機能してしまうことがあるというわけなのだ。まぁ、この国では不思議なことに「訂正」とか「修正」とかの概念すら超越したパワーワード:「記憶にございません」がいとも簡単にまかり通ってしまうので、ここでわたしがひとり奮闘したとて、大した効果は発揮しないことくらい承知しているのだけれどもね。

さて、そんなことを思いながら「これは訂正ですね~」「これは修正ですね~」と指摘していると、ふと「でも本来は修正しかないはずなんですよね~」と言いたくなってしまうときがある。

人生に「訂正」は効かないのだよ、と、至極当然な教訓めいた話のそれである。

「修正」はできても、「訂正」はできない。
書面上は「訂正」という形式で綺麗さっぱり取り消すことができたとしても、それを実行した人間は、その人間のその時の選択は、人生は、「訂正」が効くほど甘くはなく、どんなに頑張っても「修正」を図ることが精一杯なんだけど、どない?などと思ってしまうのだ。

でも、記事の冒頭でも話した通り、そんなことを気にして生活している人はごく稀だから、誰しもその時々で自分の都合の良いように「訂正」と「修正」を無意識的に使い分けてくる。

わたしはたまたま偶然に、日本企業特有の習わしに流されるがまま、そんな「訂正」と「修正」の違いを見極める門番のような役回りで、いま対価を貰っているのだけれど、そこに生じる微小な責任感と、生まれ持ってのやかましい人間性の狭間で、そんな人々の働きを眺めては、かようなことを思ったり思わなかったりしているのだ。

「じゃあもう訂正で!」
そんな台詞とともに、書類をシュレッダーにかけてしまうことは簡単だけど、僅かばかりでも、その人の意識の中では「訂正」ではなく「修正」であったことを記憶していて欲しいと、願うこともしばしば。

少なくともわたしは、訂正じゃなくて、修正の人生を歩もうなどと思って、静かに姿勢を正したりしている。

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