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『推しの子』に見るアルフレッド・ヒッチコックみ。

仕事は上半期の決算がひと段落(?)し、心身ともに疲れ切っている。しかし、眠れない。ベッドに横になるも、眠気が襲ってこない。そんな秋の夜長に、わたしは『推しの子』を一気見した。(今さら)

アイの声っ…!高木さんっ!? となった初見時。


当時このアニメ放送が始まったときは、まったくと言っていいほど興味を示さず、チラッとかじった程度で途中放棄していた過去がある・・・のだが、「眠れない夜×時間潰し×途中放棄してしまったアニメ」というすべての条件が一致し、Netflixの再生ボタンを押したが事の始まり。あろうことか(明日もまだ仕事だというのに)徹夜で第1クールを完走した。そして今は、第2クールの放送が楽しみで仕方なくなっているではないか。天才的なアイドル様にしっかりと沼落ちしたその背景には、とある奇才と同じ影を見たような気がしたからだ。


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『推しの子』に見るアルフレッド・ヒッチコックみ。

皆さんはアルフレッド・ヒッチコックという映画監督をご存知だろうか。1900年代を代表する奇才。『サイコ』や『めまい』『鳥』といった、ホラー、サスペンス、スリラー映画の父であり、映画史上最も影響力のある映画監督と言われるほどの人物である。彼が生み出した特殊な撮影技法、脚本、音楽たちは、今もなお多くの観客を驚かせ、多くの映画人が学び、盗み、真似をする、まさに巨匠である。

ん。かわいい。


中でも傑作『サイコ』はわたしも大のお気に入り作品である。同作についてよく語られるのは、独特な撮影方法や音楽音響についてだが、わたしのお気に入りポイントは、「奇抜な脚本」「観客の視点」である。映画『サイコ』を食い入るように繰り返し観て、母親に「この子は大丈夫かしら」と心配までされたわたしは、今を代表するジャパニーズアニメーション『推しの子』に、同じ興奮を感じている。今回は、『推しの子』と、ヒッチコックの『サイコ』の類似点を上げ、両作品に通ずる面白さを共有していこう。

アバンギャルドでイカしたポスター。


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「奇抜な脚本」

"奇抜"にも様々種類はあるだろうが、こと脚本における奇抜さは、観客の誰もが予想できなかったストーリー展開と言うことができるだろう。

『推しの子』と『サイコ』が決定的に類似している点は、主人公と思っていた女性が、物語の序盤で死を遂げる、ということだ。
『推しの子』では星野アイが、『サイコ』ではマリオンが。

どこか似てない?


あまりテキトーなことは言えないが、物語の途中で主人公が変わり、どんどんと別のストーリーが重なっていく、という脚本形式を決定付けたのは、映画史的には『サイコ』が初めてだと聞いたことがある。これは決して『推しの子』が『サイコ』のパクリをした!とかいうことではなく、ポップな女性アイドルを主人公に据えた物語に、ヒッチコックのような演出で色付けするという斬新すぎる企画が凄まじいことだと言いたいのだ。

アイドルを題材にしたサスペンス作品としては、今敏監督の『パーフェクトブルー』(これもわたしの大好きな作品…)もあるが、これは元より不穏な雰囲気で物語の幕が開け、アイドルの虚構と現実を前面に押し出した作品だった。ここでいう"奇抜な脚本"の点においては、圧倒的に『推しの子』が優勝している。

【ゆる募】推しの子ブルー連続上映会。
シンプルに病みそう☆


このインパクトは、かつて『サイコ』で世界中の観客が度肝を抜かれた体験のように、言葉通りの「まさか・・・?」をやってのけていると思う。無論アニメはR16指定。誰もが楽しめるエンターテイメントかと問われれば、簡単にYESとは言えない作品だが、『推しの子』には確かに観客を惹きつける脚本がある。キラキラと輝くアニメ作品からは想像もできなかったヒッチコック流の"掴み"が、これでもかというほどどぎつく注ぎ込まれていたのだ。これを面白いと言わずに何と言おう。

また、星野アイとマリオン、2人の女性キャラクターの死に方というのも実に似ている。何かをやり遂げたかのような安心感を前に、不意に謎の男からナイフで刺される…という演出だ。

背後から、正面から、近付く黒い影。


この"死"というのも、単に恐怖感を与えるためだけの演出ではなく、(言葉としては非常に不適切だが)"死"によって守られた何かがあるのではないか、そんな裏までが垣間見えるようであるから不思議だ。
なおマリオンのそれは"お金"である。『サイコ』の物語で忘れがちだが、ことの発端はマリオンの札束横領事件だ。その罪の意識、取り返しのつかないことをやってしまったという事実が、間接的ではあるが自身の"死"の引き金となる。
一方、『推しの子』における星野アイのそれは"愛"ではないだろうか。愛されなかった、愛せなかった、愛してるの言葉も全部ウソだった…。星野アイというキャラクター設定のそれは、『サイコ』のマリオン以上に、大変興味深いものである。

かわいい。(シンプル)


映像としてのショッキング性に加え、この殺人事件は、物語を大きく躍進させる。観客はここで初めて、この作品は星野アイ並びにマリオンの生き方を見ていくものではないと悟り、腰を据えて物語に対面せざるを得なくなるのだ。このミスリードに思わずやられた!と額を抑えながらも、次は何をやってくれるのか?、逆に何を見落としていたのか?、と、我々観客は完全に「謎解き脳」に切り替わってしまう。まったくなんて良くできた脚本だろう。

『サイコ』ではマリオンの死後、事件を追う刑事と、タイトルの通り"サイコパス"という精神疾患を負った患者であり犯人のストーリーへとシフトしていく。

ノーマン・ベイツ。こわい。


『推しの子』は今現在物語の進行中であるため、黒幕は明かされていないが…星野アイの死後、タイトル通りの"推しの子"、つまり転生したアイの子供たち(アクアとルビー)と、アイを死に追いやった黒幕のストーリーへとシフトしているところだ。

ルビーとアクアマリン。
キラキラネームなの笑う。笑


また『サイコ』においては、公開当時"サイコパス"という概念すら浸透しておらず、この作品をきっかけに人々に新たな視点や価値観を提供したと言われている。
『推しの子』においても、作品全体から読み取れる"業界"の裏話や、毒々しさ、暗黙の了解やネットリテラシーの問題など、明らかに賛否両論を生む、前衛的で挑戦的なストーリー設定が敷かれている。

繰り返しとなるが、脚本上は単なる謎解きサスペンスのそれである。だが、稀代の名作『サイコ』と実に似通った脚本を携えた『推しの子』に、重要なメッセージが隠されていないわけがない。その奇抜さが秘める『推しの子』以前と以後の、人々の変容を楽しみたいとすら思うほどにだ。


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「観客の視点」

両作におけるもう1つ重要な点。それは、我々観客の視点をどこに持たせているか、である。
映画やドラマ、曲の歌詞やネットニュースの記事でさえ、その物語に感情移入できるか否かは、観客の視点がどこに定まっているのかに起因する。

視点。たいせつ。


『サイコ』にしろ『推しの子』にしろ、主人公のマリオンや星野アイ自身の視点で描いていたら、おそらくここまで売れていなかっただろう。我々はサイコパスに命を狙われるヒロインでも、伝説のアイドルでもなく、そんな彼女たちのプライベートを"覗き見"している、つまりは絶対の安全圏から訳ありゴシップを見ているという構図であるからこそ、不覚にもエンタメとして楽しみ、わくわくできるのだ。これは当の『推しの子』でも「恋愛リアリティショー」の回で語られていた。

いろいろ、考えさせられますよね。


「恋愛リアリティショー」であれば、端からその設定で番組をスタートさせているが、映画やアニメーションは、この技を観客が分からないよう巧みに盛り込んでくる。
『サイコ』の幕開けを例に取るならば、それはアパートの一室で男女がベッドに横たわるシーンを、遠くから、だんだんと窓に近づいて、ゆっくりその様子を伺うカメラワークでスタートさせている。まさに"覗き"だ。
一方『推しの子』の第1作目は、武道館の引きの画から始まり、アイドル・星野アイの姿を観客席から見るように、さらには、人里離れた病院の一室からそのライブ映像を見ている患者と医師の様子を、これまた外から見ているようなカメラワークでスタートする。(『推しの子』のそれは、シュールなコメディタッチだが。笑)

そんなのよくある演出じゃないか、と言われれば確かにそうである。しかし、両作品ともにキーポイントとして描かれるのは「見る・見られる」という視線の恐怖。"覗き見"の構図は面白さだけでなく、不安や怪しさをも募らせる働きを持っているのだ。

めっ。


『サイコ』ではキャラクターの動きを、不可解なほど床や窓の反射から写すなどし、『推しの子』でも目元のアップだけにしたり、真正面からのカットなのに左右非対称に描くなど、明らかに"おかしい"視点の描き方をしている。

映画やアニメーションは言わずもがな「動く画を観るもの」であるため、観客の視点なんてものは特別作り手側が定めなくとも、観客は勝手に見たいところを見るものである。
しかし、その視点にひとつ明確な置き場所を作ることで、観客はあっという間に感情移入してしまう。それが"覗き見"としての構図であったり、通常とは異なる角度からの視点に限定されたならば、そこから生まれる魅力的な画は、観客の心を掴んで離さない。

『サイコ』のラストシーンでは、犯人であるノーマン・ベイツの不気味過ぎるカメラ目線の長回しが、『推しの子』では、星野アイをはじめスターの瞳を持つ者たちの謎が、我々観客にも向けられている。

目の星は、嘘の象徴か。


観客が作品を見ているとき、作品もまた観客を見ている・・・そういう面白さがふんだんに盛り込まれているのだ。

早い話、観客の視点や気持ちを考えて作られた作品に、面白くないものなんてない、ということである。抜け目なく、不都合なく、まさに「究極のアイドル」のごとく。


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おわりに

いかがだろうか?
今さらお前なんかの解説を聞かなくたって面白いことは分かってるよ!との声も聞こえてきそうではあるが・・・笑
恥ずかしながら、昨晩までわたしは『推しの子』を食わず嫌いしていた。それはひとえに「転生もの」という物語設定を知ってしまっていたからだ。「転生もの」には「転生もの」の面白さがあることは分かっているが、ストーリーというよりキャラクターの魅力に全振りし、物語の舞台や時代設定に"何でもあり"の自由度を与えてしまうことが、どうにも好きになれない理由である。

しかし『推しの子』の見どころは「転生」ではなく、練りに練られたサスペンス要素と倫理課題の掛け合わせだ。(あと声優陣の素晴らしい演技。『高木さん』に続き、高橋李依の声にはまんまと引き込まれてしまった・・・笑)
それは文句なしの名作映画『サイコ』を引き合いにだそうとも決して見劣りせず、それどころか現在の社会問題を恐ろしいほどネタに昇華していく様は、『サイコ』以上の緊迫感と問題意識を抱かせてくれる。
とはいえ、重い題材を扱う割にはキャラクターのポップさが変わらず、批判の対象になってしまうのではないか?とヒヤヒヤしないこともない。サスペンス要素も、第2クールが始まり、ただひたすらに奇抜などんでん返しを繰り返していれば良い、というわけでもないから難しい。

平気だよぉ〜☆ って言ってそう。


だが、社会人になって何度か眠れない夜を過ごしたことはあるが、昨晩ほど寝なくて良かった!と思ったことはない。

思いもよらず楽しい夜を過ごしてしまった。
またしばらく、いろんな考察をしながら『推しの子』の新作を期待して待つとしよう。


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余談

皆さんにとっての究極のアイドルって誰でした?
わたしはふとアニメを見ながら"ももち"こと嗣永桃子を思い出していました。今もきっと素敵な人生を歩んでいるんでしょうねぇ。



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