玉川上水を歩く 5

 中学生になった筆者がついに羽村の堰に到達した歓喜の記憶、そして50年を隔ててこの春高井戸~三鷹の再踏査を試みたこと、それらを先月投稿した。これをもって、玉川上水への執着を文字にすることは一区切り、終わりにしようと思った。もう、付け足すことはない、と考えたはずであった。ところが、先日、朝刊一面のコラム(1)に寺田寅彦の文章が紹介されているのを読んだ、読んでにわかに、もう一回だけ投稿をしたい、玉川上水のその後を書きたい、そんな欲求が惹起されてしまったのである。
 強い地震のために断水してしまったこと、予測できたであろうに対策がなされていなかったことへの疑問、そもそも身の回りのさまざまな仕掛けに不備の多いこと、科学的な知識が生活に十分に生かされていない等、寺田寅彦が「断水の日」という随筆に記しているというのだ。地震とは1921年12月8日に茨城県南西部で発生した竜ケ崎地震のことである。このときの揺れにより、玉川上水の新水路が崩れ東京の断水が3日間続いた。
 明治に入り引き続き飲料、生活用水として活用されていた玉川上水だったが、都市化が進む中で急激に水質の悪化が進み、さらに1886年の東京でのコレラ大流行もあり、近代水道建設が急がれたのであった。あらたに計画された淀橋浄水場の標高が従来の玉川上水の流路よりも高かったために、現在の杉並区南東部、和泉の玉川上水から直線的に新たな水路を構築したのである。和泉からまるで定規をあてて線を引いたように、渋谷区北部の笹塚、幡ヶ谷、本町を淀橋まで貫流させるには、そのほぼ全域で築堤工事が必要であった。浄水場の掘削で出る残土を新水路築堤に用いたという。現在の都道431号線、通称「水道道路」が、その水路の跡である。新水路に架けられた16本の橋は「一号橋」「二号橋」…と順に命名されたという。現在の六号通り、七号通り、十号坂、十三号通り公園などはその名残である。淀橋浄水場は1898年に竣工しここに我が国の近代水道がスタートしたのだった。
 直線的に構築された新水路ではあるが完全な直線ではなく、わずかな屈曲が何か所かあった。それは水道道路を実際に歩いて観察することができる。なかでも、渋谷区本町の「本町一丁目」バス停付近では、明らかに「く」の字形に屈折している。実は竜ケ崎地震の揺れにより、この屈曲部が崩壊したのであった。悪いことに、この屈曲部の下に水路をくぐる隧道(2)がある。水路に力学的悪条件が重なり、新水路は崩れ周囲の低地に水が溢れたのだ。淀橋浄水場の機能が失われ、3日間の断水を余儀なくされた。
 さらに大きな被害があったのは、その1年10カ月後に発生した関東大震災であった。竜ケ崎地震に増して甚大な決壊が発生してしまったが、翌日午後には送水が復活したそうである。竜ケ崎地震の施設損傷に危機感をもった荏原製作所の畠山一清の尽力により、玉川上水旧水路の千駄ヶ谷橋付近に、緊急時に備えた揚水ポンプが設置されており、旧水路を利用して水が送られたという。
 その後、平行する国道20号の拡幅工事に合わせ、甲州街道の地下に導水管が設置された。1937年から淀橋浄水場が廃止の1965年まで、崩壊、漏水等の心配のない、「新たな新水路」が使われてきた。水道道路が実際に「水道」であったのは40年間ほどのことだった。

1 毎日新聞 2024.4.2 朝刊
2 本村隧道、現役である

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