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胡蝶の夢的な考え方は常にあるもの(SAO3期をみて)


今日はSAOで見てて出てきた胡蝶の夢的な話です。半月前に見たのでちゃんと覚えてないですが、多分主人公が仮想世界内のAIが発達してできた世界を統べる管理者に「君たちはこの世界の作成者(ゲームマスター)にダメだと思われたら初期化されるだけの人間なのになぜそんなにもこの世界にこだわる」的な話をして、「あなたの世界が一番大元の世界だとなぜ言える?今、この世界が自分の世界ならその世界でやりたいことをやってもいいじゃない。」みたいな返しをしていて、これってまさに胡蝶の夢だよなぁと思いました。


そして、僕は普段、「もしかしたら今の僕は意識があるように見えて死にかけている僕のフラッシュバックなのかもしれない」と思ったり、「もっと高次元の世界の人がゲーム感覚で楽しんでいる世界の意識なのかもしれない」みたいな事をぼーっと考えたりしてるのでちょっと考えてみたいと思います。


どちらが真実の姿か、それは問題ではなく、胡蝶であるときは栩栩然として胡蝶になり、荘周であるときは荘周となっている。そのいずれも真実であり、己であることに変わりはなく、どちらが真の世界であるかを論ずるよりも、いずれをも肯定して受け容れ、それぞれの場で満足して生きればよいのである。「夢が現実か、現実が夢なのか?しかし、そんなことはどちらでもよいことだ」と荘子は言っているのだ。
ー Wikipedia「胡蝶の夢」から抜粋

この文章がまさに仮想世界の管理者が言っていたことに近い気がします。結局なところ、相対的にみた仮想世界と現実世界はどうでもよく、その時、その意識を持っている自分が真実なのである。ということですよね。

少し前に、この胡蝶の夢の話をして、今いるこの世界は実は夢かもしれないという話をした際に、友達に「怖くなるからその話はしないでくれ。」と言われたことがあります。これは、まさに今が真の世界ではないという恐怖からくるものですよね。ここで大事なのはこの話を知った時にそんなのどうでもよくて、今を楽しめばいいと思ったり、それを知った上でどちらでもいいと割り切るのが大事なのだと思います。


そしてこれは、努力は必ず報われる論にもきてたりする気がします。まさに、努力をすると報われるべきであり、その世界が真実の世界である。努力をして報われない世界は偽りの世界であるという考えで、時間をかけて、努力をしていくのが美徳であるというような世界観があるなぁと思ったりしました。

こうした中で努力したけど報われなくてもまぁそんなこともあるさと割り切れる、ひきずらない。そしてそれを教訓にして次の挑戦に向けて報われるかどうかなんて関係なしに努力をやり切れるのが大切になってくるのかなと思ったりしました。


まとめとして、ありとあらゆる事実を受け入れるというのが重要かもしれないという話でした。

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