見出し画像

介護・人間関係論Ⅰ 介護における相互行為(interraction)とは何か?


1.フィヒテの相互承認論

 介護は、介護される者と介護する者との相互行為なのですが、そもそも、その相互行為とは何なのでしょうか。または、どうあるべきなのでしょうか。

 フィヒテは『自然法の基礎』において相互承認論を次のように展開しています。


フィヒテ(Johann Gottlieb Fichte 1762年~ 1814年)ドイツの哲学者

「人は、意識・自己意識ともに形式的条件(能力)が備わっていても、それでは単に「可能的」であるにとどまる、とされ、行為が現実となるためには、他者からの「行為への促し」が必要であるとされる。このような促しというのは、一種の呼びかけであり、人が相互に相手を自分と同類の知的存在と認め合っていることにより起きる、とする。促しによって、ひとたび行為者の自己意識が現実化すると、それ以降は相手を知的存在者の概念に沿って扱うようになる、とする。これが、法的行為あるいは道徳的行為の基本形式である、とする。」

(引用:Wikipedia 参照URL https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9B%B8%E4%BA%92%E4%BD%9C%E7%94%A8
2020.07.09)
 

 ここには幾つかの大切な指摘があります。

・第一に相互行為は人の能力発揮の前提であること。
・第二に相互行為は他者からの行動への促し、呼びかけがが必要であること。
・第三に人が相互に理性的存在者として認め合い、それに相応しく遇することが必要であること。
・第四に相互行為は理性的存在者同士がお互いに自由を制限し合い、権利を確定し共同体の法および道徳の基盤となること。 

 以上の相互行為に関する要点を介護についての考察に生かしたいと思います。

 介護とは依存的存在である当事者のニーズを満たす相互行為です。
 ですから、介護が相互行為である限り、介護される者と介護する者と相互に行動への促し、呼びかけが必要で、相互に人として認め合い、相互に人として遇し合うことで、相互の能力が発揮でき、当事者のニーズが満たされることになるわけです。
 また、この介護における相互行為が成立していない場合は、介護施設内での道徳の基盤が喪失していることになります。なぜなら、フィヒテがいうように相互行為が道徳の基盤だからです。
 相互行為ではない、介護する者による一方的な介護は介護施設の道徳を崩壊させ、道徳の存在しないすさんだ、暴力的な空間、虐待/abuseの常態化した介護施設にしてしまいます。
 さらに、介護が相互行為である限り、介護される者だけではなく介護する者も等しく人として尊重されなければなりません。 

2.能動態-受動態から介護を考える

 介護とは介護する者と介護される者の相互行為ですが、「介護する」というのは能動態(active voice)で「介護される」というのは受動態(passive voice)となります。介護関係とは介護は「する」者(能動態)と介護「される」者(受動態)との関係です。次に、この動詞の態(注1)から介護の相互関係を考えてみます。 

注1:たいとは動詞にみられる文法範疇はんちゅうの一つ。 主語と行為との関係において、主語がある行為を行う能動態、ある行為を受ける受動態(受け身)、主語自身にその行為が関係する中動態に分かれる。 多くの場合,受動態と中間態は一つの形をとる。

 能動態-受動態は「やる」か「やられる」かという厳しい対立関係を表現するに相応(ふさわ)しいものです。
 例えば、「お前が殴ったのか。それともお前は殴られたのか。」という能動態-受動態の表現は、行為の責任を厳しく問う表現、尋問する表現です。
 能動態の主体(殴った者)がその行為の責任を問われることになり、殴られた者(受動態)は責任を問われることはありません。

 介護が相互行為であっても同様でしょう。介護する者(能動態)が責任ある主体で、介護される者(受動態)はその介護行為においては責任が無いことになります。このように、介護「する」のか、介護「される」のかではその立場は天と地ほどの差があります。

 ここに介護関係における非対称性の根柢があるのだと思います。

 能動態-受動態で思考する限り、介護の相互関係はのっぴきならない 権力関係、責任-無責任関係としてしか見えてきません。 

3.中動態とは

 國分功一郎(哲学者:東京大学大学院総合文化研究科教授)さんによると古典語(注2)には能動態(する)でも受動態(される)でもない中道態(middle voice)があったといいます。

注2:「古典言語 ("the Classical Languages")」とは、西洋文明の基盤を成すところの古典古代のギリシア語・ラテン語、古代中国語、古代アラビア語、サンスクリットの文語のこと。

 もともと古典語には受動態はなく能動態と中道態があって、受動態は中動態から派生し中動態を乗っ取ってしまったということです。
 つまり、古典語においては、現在の能動態-受動態という対立ではなく、能動態-中動態という対立だったといいます。
 この転換の背景には行為の源泉・出発点としての意志、行為の責任を明らかにするための意志概念の普及があったとみられています。 

 能動態では、動詞は主語から出発して、主語の「外」で完結する過程を示しています。
 例えば、「曲げる」、「与える」などは、まさに主体から発して、主体の「外」で完遂する行為です。

一方、中動態において主語は過程の「内側」にあるといいます。
 例えば「惚れる」や「耐える」、「動揺する」、「気にかける」は、主語はその動詞の指し示す過程の「内」にあります。
 能動態と受動態との対立においては、「する」か「される」かが問題となるのに対し、能動態と中動態の対立においては、主語が過程の「内」にあるのか「外」にあるのかが問題となるのです。

 つまり、自分で行為を起こした結果、他者が変容するものが能動態で、自らが行なった行為がそのまま自分の状況に影響を与えるものが中動態。
 言いかえると、中動態の場合、主語は単なる動詞の作用する場所であって、何かに働きかけ、それを変更、支配するような主体ではないのです。

 中動態の具体的な例は次のようなものです。

①  自分に対する動作(従う・すわる・着る・体を洗う)
②  動作の結果が自分の利害に関連する場合
③  知覚・感覚・感情を表す動作(見る・知る・怒る)
④  相互に行なう動作(会話する・戦う)

  こうしてみると、介護というのは、中動態で表される動詞、行為が多いと思います。特に相互に行う動作、相互行為は中動態的な事態だといって良いでしょう。
 「介護する」⇔「介護される」という能動態・受動態から介護における相互関係を考えるのではなく、この中動態から介護をとらえてみてはどうでしょうか。 


4.中動態からみた介護

 介護を介護する(能動態)/介護される(受動態)でもない中動態から捉えるなら、介護する者と介護される者のどちらかが責任ある主体になるのか、どちらが支配するのかということは主題とはなりえません。 

上野千鶴子さんによると、「英語の「ケアcare」の語源は、ラテン語のcuraに由来し、「心配、労苦、不安」の意味と、「思いやり、献身」の二つの意味で使われていた。」といいます。

(引用:上野千鶴子(2011)『ケアの社会学』太田出版 p36)

 語源的には介護を「配慮する」「気遣う」と読み替えることが可能です。
 そしてこの「配慮する」「気遣う」は古典語においては中動態に属しています。
 つまり、「配慮する」と読み替えることのできる介護は介護「する」「される」という能動-受動的な関係ではなく、他者に配慮することが自分にもかえってくる中動態的な世界として捉えることが可能なのです。

 中動態的な観点からすると、介護の相互関係とは介護「する」者、「される」者がお互いに「配慮し合う関係」といえます。
 中動態から見た介護には、どちらが主体(主)であり、どちらが従(奴)であるのかを巡る問いが失効する世界であり、介護するものとされる者のどちらに責任があるのかといった能動-受動の世界とは別の世界であり得るのです。
 介護関係には「誰が主体で誰が客体なのか。」「誰に責任があるのか。」という問いがあまり馴染まない。または、そのように問うことがあまり適切ではない世界なのかも知れません。 

5.恋することと介護すること

 「惚れる」「恋する」を能動-受動の世界でみれば、恋「する」者が主体で、恋「される」者は客体です。そしてこの恋する/恋されるという、能動-受動の論理からすると、なにか片思いとか、一方的な恋しかイメージできなくなります。

 能動-受動の世界・論理を生きていると、恋も一方的(主奴しゅど関係)となりストーカーやDV(domestic violenc)に発展してしまいそうで怖くなってしまいます。なにしろ、能動-受動の世界では、恋する者が主体(主)で、恋される者は客体(奴)という思考が刷り込まれやすいからです。
 しかし、「惚れる」「恋する」という動詞もかつては中動態だったといいます。
 能動-受動の世界では「恋する」主体と「恋される」客体に分離しますが、中動態の世界では「恋する」という動詞は恋することで自分も変えられてしまうということを表すのです。

 確かに、惚れる、恋する者は、自らも変化し、何気なにげないいつもの景色も美しく見えるものです。このことを大切にしなければ、素敵な恋はできないでしょう。

 理想の恋はもちろん相思相愛ですが、この恋するという動詞の過程・プロセスは二人共同での欲望形成過程(注3)ではないでしょうか。
 それぞれ違う過去、環境、経験、価値観を持った二人がそれを踏まえて共同して二人の欲望を形作かたちづくっていくのが素敵な恋というものなのでしょう。

注3: 國分功一郎さんの造語で國分は医療・福祉領域で使われている「意志決定支援」は意志の概念や能動-受動という現在の言語によって責任を押し付ける論理となっているとして、「欲望形成支援」という概念を提唱している。(参照;國分功一郎・熊谷晋一郎2020「<責任>の生成-中動態と当事者研究」新曜社 p197,~201)

 介護もこのような恋と同じように、介護される者、介護する者の能力、過去、経験、環境等を踏まえて、その都度つど、どのような介護が望ましいのかを明らかにし、作り上げていく欲望形成過程がとても大切だと思うのです。 

 次の恋について書かれた文章は「恋」と「介護」を相互に入れ替えることができます。 

恋 ⇒『迷いながら、考えながら、その都度、手探りでより良い「恋」を作っていくことを放棄(ほうき)し(そんなことは面倒くさい)、いつもの「マニュアル本」のとおりの「デート」に安住(あんじゅう)し、相互行為であるべき「恋」を一方通行の「恋」、つまり、「恋人」を無視する自分勝手な「恋」はろくなものではない。』 

介護 ⇒『迷いながら、考えながら、その都度、手探りでより良い「介護」を作っていくことを放棄(ほうき)し(そんなことは面倒くさい)、いつもの「マニュアル」のとおりの「介護」)に安住(あんじゅう)し、相互行為であるべき「介護」を一方通行の「介護」、つまり、「入居者」を無視する自分勝手な「介護」はろくなものではない。』

  最初に紹介したフィヒテの相互承認論もこの中動態の世界を描いたものといえるでしょう。つまり、相互に人として認め合い、相互に人として遇し合うことで、相互の能力が発揮でき、お互いの欲望が満たされることになります。

 介護の主体、責任を峻別する態(能動-受動)から、介護という出来事を記述する態(中動態)への転換、思考の転換により、介護について、より解像度の高い理解が得られるのではないかと期待しています。 

 中動態は医療、看護などの分野で脚光を浴びていますが、介護の分野でも今後、この中動態をとおしてそのあり方を考察する必要があると思います。 

(中動態についての参照:國分巧一郎2017『中動態の世界』-意志と責任の考古学-医学書院、及び 國分功一郎・熊谷晋一郎2020「<責任>の生成-中動態と当事者研究」新曜社 ) 

6.「さわる」・「ふれる」からみた介護における相互行為

 実際の日常の介護では、ベッドから車椅子への移乗介助、車椅子での移動介助、着替えの介助、入浴の介助、排泄の介助などは直接的に当事者(お年寄り)の身体を触らなければできません。
 この介護に不可欠な「さわる」という行為、または「ふれる」という行為を介して、介護における相互行為を捉えてみたいと思います。つまり、介護関係を身体性から考えるということも大切です。 

伊藤亜紗 2020「手の倫理」講談社選書メチエ

 伊藤亜紗さん(東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授)は相手の体にふれながら関わる「触覚的なやりとり」が持つ特徴を、コミュニケーションという観点から分析しています。
 同氏は介護に不可欠な「さわる」という行為と「ふれる」という行為について次のように峻別しています。 

『「ふれる」が相互的であるのに対し、「さわる」は一方的である。・・・言い換えれば、「ふれる」は人間的なかかわり、「さわる」は物的なかかわり、ということになるでしょう。』

(伊藤亜紗2020「手の倫理」講談社選書メチエp5)

 「さわる」は相手を物として扱うように一方通行です。医師の触診は完全な「さわる」行為でしょう。触診は患者の病状を客観的、科学的に判断するための「さわる」行為だからです。

 これに対して「ふれる」とは、対象を客体化するのではなく、対象の内部に浸(ひた)ることです。
 文化に「ふれる」とは言っても、文化を「さわる」とは言いません。文化に「ふれる」ということは、その文化を受容し、その内部に浸るというような意味だからです。また、人柄に「さわる」とは言いません。人柄に「ふれる」のです。 
 「ふれる」には単に物を「さわる」場合とは違って双方向性があります。「ふれる」ことによって、他者の内面と交流できるからです。「ふれる」は先に紹介した中動態的な特徴を強く持つものと言えるでしょう。 

 介護では、当事者(お年寄り)を移乗、移動させる場合等、腕をさわったり、腰をさわったり、当事者の身体を「さわる」ことが多いです。
 また、そのような介助時に「さわる」だけではなく、「ふれる」場合もあるのでしょう。

 伊藤亜紗さんは、「ふれる」ことを介して当事者(お年寄り)の不安や安心、意志にふれる可能性について次のように指摘しています。 

 「私たちは人の体にふれることで、その表面についての情報、つまりその人の肌の柔らかさやすべらかさといった物理的な質についての情報を得るだけでなく、いままさに相手がどうしたがっているのか、あるいはどうしたくないのかと感じているのか、その衝動や意志のようなものにふれることができるのです。」
 また、同氏は介助が「さわる」という一方通行の関係性だけではないと指摘しています。
 『介助が純粋に伝達的であったなら、「介助される側」と「介助する側」という役割が固定されていたでしょう。しかし、生成的な介助においては、そうではない。』

(引用;伊藤亜紗2020「手の倫理」講談社選書メチエp133,134)

  要するに、介助が一方通行の「さわる」とういうことだけであれば、「介助される側」と「介助する側」という役割固定、関係の非対称性が固定化されてしまいますが、介助には「ふれる」という側面もあるので、双方向的な関係性、相互行為としての介護もあり得るということになります。

 介護の身体的側面、介護技術的な側面には、当事者に「ふれる」ことにより開けてくる双方向の関係性、相互行為があり得るのです。 

 伊藤亜紗さんは、また、他者をさわったり、他者にふれたりするためには信頼が不可欠だとも指摘しています。そして、とても参考になる事例を紹介しています。 

『ある病院で、胸の計器が外れているのに気づいた看護師が、何も言わずに患者さんの体にさわったところ、足蹴りされてしまったそうです。その患者さんはおそらく、いきなりさわられたことが、怖かったのでしょう。ところが、退院時にかかりつけ医に渡す情報提供書には、「この患者には暴力行為がある」と書かれていたそう。患者さんからすれば、自分の体に突然さわる看護師のほうがよっぽど暴力的だったはずです。ここに欠けているのは、「信頼」です。患者さんは、信頼のもとで看護師に「ふれて」欲しかった。けれども看護師が一方的に「さわった」ので、そのことに抵抗しました。』

(伊藤亜紗2020「手の倫理」講談社選書メチエp88)

  介護の身体技的、技能的側面、つまり、当事者の身体にさわったり、当事者にふれたりするなかで、その関係性は刻一刻変化しているということです。そして、「ふれる」介護が介護される者と介護する者との相互行為の大前提となっているのです。 

 今、大手介護事業者がAIやモニタリング機器、ICT機器などの活用によって人員配置基準を緩和させようとしています。
 AIやモニタリング機器などのICT機器をとおしては当事者に「ふれる」ことはできません。
 ICT機器は介護を相互行為ではなく一方的な行為、権力的、抑圧的、暴力的な関係にしかなりかねません。 
 介護の相互行為を担保する「ふれる」ということを踏まえるならば、介護は介護者が原則的には当事者(お年寄り)のそばにいることが不可欠です。
 介護のような対人サービスにおいて道具がたくさんあるから、良い道具があるから介護職員の配置を減らして良い、と言うことには直接的にはつながるはずがありません。
 AIやICT機器の活用を促し、介護の効率化を図り人員配置基準を緩和しようとすることがいかに本末転倒なのか、この「ふれる」ということからも理解できます。

7.根柢的関係性(関係の非対称性)へのあらが

 介護とは介護される者と介護する者との相互行為ですが、この介護される者と介護する者との関係性は平等ではなく非対称的です。
 介護する者が圧倒的な強者であり、権力性、抑圧性、暴力性を有しているのです。
 例え、高邁こうまいな介護理念をうたったとしても、例え、介護者手足論を振りかざしたとしても、介護される者を主(あるじ)とする規範的・理念的主奴しゅど関係は現実にはひっくり返され、介護者が主で介護される者が奴であるような主奴関係となってしまいます。
 これが介護の根柢的関係性なのです。

 この介護の権力性、抑圧性、暴力性を介護者自身に対して隠蔽いんぺいするために、介護者達はパターナリズム(Paternalism;温情的庇護主義)を身にまとうのです。 
 なんとなく介護をしていては、介護は権力的、抑圧的、暴力的な介護にならざるを得ないのです。 

 しかし、この根柢的関係性(関係の非対称性)は必然、不可避なものではありません。
 紹介してきたフィヒテのいう相互承認、中動態的観点から捉えられた介護、他者に「ふれる」介護などは、根柢的関係性(関係の非対称性)ではない非権力的、非抑圧的、非暴力的な関係もあり得ることを示しています。
 そして、実際にそのような関係性を築いている介護者もおります。 

 介護の非対称性をしっかりと認識し、意識的にそれにあらがってはじめて相互承認的な介護が可能となります。
 介護の怖さを充分知っているからこそ、より良い介護を目指せるのです。

 根柢的関係性(関係の非対称性)に抗い、より良い介護を目指し実践している方々のその意志(断絶する力・断ち切る力)とその工夫、知恵に敬意を表します。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?