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落語家が落語について書いたっていいじゃないか

年末年始は暇です。

まあ、基本的には仕事をとらないようにしているのもありますが。

時間がたっぷりあるので、年末年始は落語についていろいろ考えました。それについて、まとめていこうかと思います。
でも、落語家が落語について書くというのは、あんまりないです。楽屋で起きたこと、師匠のことはありますが、肝心の落語はあまりない。

なぜか?

だって角が立つから。

落語家が十人いたら、十人それぞれの考えがあります。それに、こういう落語について書くのは「野暮だよ兄ちゃん」案件です。 

そしてなにより、

こういうものは、

売れてねえ若手が書くもんじゃないです。
売れて結果出して書くやつです、、、

まあ、でもせっかく考えたし、読む人もたかが知れているので書いていきます。

年末年始ダラダラしながらも、いろんな人の落語を聴きました。そして、この人はなぜ売れているのか。

そう思いながら聴き、また別の人、また別の人。

逆に、なぜこの人は売れていないのか。

この人の落語は僕は嫌いだが、売れている。
逆にこの人は、面白いし結果を残しているのに、なぜ売れていないのだろう。
僕が新作落語を中心にやっているので、新作落語をやっている人たちに注目して考えていきました。

いろんな疑問だらけになったんですが、僕なりにある結論に達しました。

売れる人、つまり活躍している人は、

なにかしらをフリにしてきた人が多いことが分かりました。

ん、なに?


と、お思いでしょう。
ちょっと待って!説明します。


ざっくりと3つあります。
『時代をフリにする』

『師匠をフリをする』

『落語をフリにする』

この3つがあり、順に説明していこうと思います。

まずは、『時代をフリにする』

これは例としてあげると、立川志の輔師匠、そして私の師匠、春風亭昇太です。

落語界のレジェンドのお二方なわけですが、実は協会が違えど同期です。聞くところによると、お二方の若手時代は「古典本寸法」という言葉ができた時代で、古典めっちゃ最強の時代。習ったものをそのままやるという考えの人たちも多かったらしいです。

そんな時代をフリにして登場したのがこのお二方。

硬いイメージの落語を、志の輔師匠はめちゃくちゃ分かりやすくしました。噛み砕いて落語を説明し、落語に出てくる分からない単語をなくしていきました。
師匠もそうです。古典ではない、現代を舞台にした新作落語と独特のフラで、注目されました。落語はこうだ!という時代をフリにしたお二方です。
この時代は、他にもそういう若手が何人かおり、やはりそこからガンガン活躍しています。

『師匠をフリにする』

こちらも志の輔師匠です。

志の輔師匠の師匠である談志師匠の落語哲学はすごいです。落語と言えば談志師匠という人が今でも多いでしょう。落語通の人からしたら、談志師匠はたまらない存在。志の輔師匠は、そんな談志師匠とは真逆のやり方、先ほども言った分かりやすい落語をやりはじめました。

つまり、師匠をフリにしています。

こういう人は意外と多いです。古典の一門なのに、新作をやったり、またその逆で新作の一門で古典をやったり。○○師匠のお弟子さんなのに、新作やるんだあというお客さんの中で、ギャップが生まれます。

ここまで、ついてきてますか?

意外と長いなとお思いでしょう。

序章にすぎません、、、
まだまだあります。


『落語をフリにする』

これが一番の難所!
まず説明します。
落語というのは、イメージとして、おじいちゃんが着物を着てなんか昔のこと喋ってる。たまに蕎麦くってる。そんなイメージです。
落語を知らない人は、どの時代も、だいたいこんなイメージです(たぶん)。

そのイメージをフリにすることを、僕は「落語をフリにする」と言ってます。

これをやっている人は多いです。
やり方として例えば、古典落語の中で、現代のカタカナや英語を入れる。ストーリーとは違うものを入れる。また、座布団からはみ出す。小道具を使う。見ている人は、江戸弁の中で急に出てくるカタカナや英語、そりゃ笑います。座布団からはみ出すのも、落語なのに、こんなことしていいんだ〜という驚きと笑いが生まれます。

また、そういう手法を使わずとも、ただ普通に落語をやるだけで、『落語をフリにする』ことができる人がいます。

それはフラがある人です。

先ほどもちょろっとこの言葉が出ましたが、フラについて説明します。フラというのは、その人から出てくるなんとも言えないおかしみ。キャラクターとも言えるでしょう。個性あふれる口調です。これは努力でどうしようない天性のものです。

その代表格が師匠、春風亭昇太です。

例えば寄席でいろんな噺家がでるなか、個性がある分、それ自体がフリとして使えるんです。落語家で、こんな喋り方の人いるんだー、不思議な人がいるんだー。江戸弁でテンポ良く啖呵をきるという落語のイメージをフリにしています。
また、師匠がやる古典は昇太ワールドと言われます。普通に古典をやるだけで、オリジナリティが生まれるのに、さらに師匠は独自の演出を加えるのでそりゃウケます。そりゃ、売れます。師匠は自分の見た目と口調をめちゃくちゃ理解している人です。

ここから、徐々に確信にせまっていきます。

ここまで、読んでくれてありがとうございます。まだ続きますけどね、、

僕はそんな師匠に憧れて、そして新作をやりたくて、この世界に入りました。当時から僕は手法として落語をフリにする行為(カタカナを入れるなどの手法)は正直あまりしたくなかったです。

なぜなら、楽なんです。


こういうものは、落語が上手ければ上手い人ほど、またベテランであるほど、フリがあってウケます。ただ、若手で落語がうまくなくてもウケちゃうんです。我々はいろんな場所でやるため、ウケない時は使ったりしますが、この手法は

ある種、禁断の果実です。


でも、それをうまく取り入れ、使いこなして、その人らしいオリジナリティとなって活躍している人もいますが、扱いは難しいです。


師匠はどうしているか?


師匠の場合、古典ではカタカナを全く使いません。噺の筋でやっていくというストロングスタイルです。それがかっよく、そうありたいと思いました。

そして、僕は新作をつくるうえで、落語ならではの、落語だからこそできる表現を目指してきました。
「これはコントでできるよね」
「演劇でできるよね」
というのはなるべくないようにしてきました。例えば、場面転換を多めにする。
一人でやっている分、喫茶店のシーンから家族のシーン、そこからの恋人のシーンと楽に場面を変えることができます。もちろん、映画でも簡単にシーンは変わりますが、落語の場合は脳内のイメージが変化するので、また違った面白さがあります。例として、志ん朝師匠の「紙入れ」(古典ですが)は脳内のイメージがガンガン変わっていきます。また五代目の古今亭今輔師匠の「思い出」という新作もそれを利用した落語です。
そういう、落語だからできる表現の方が、噺として強いです。
逆に『落語をフリにする』ような新作はあまりつくってきませんでした。なぜなら、『落語をフリにする』新作は楽だからです。例えば落語家が主人公のものはつくるのは楽です。
【もちろん、落語をフリにした新作で発想がすごくて面白い名作はたくさんあります。喬太郎師匠の「午後の保健室」はその代表です。】

そうではなく、僕の考えとして、いい設定を考え、落語だからできる表現をする!というのが、一番すごいことで、それをやることで、自分が活躍できるんではないか。今はあれでも、そのうちきっと!

ところが、そうじゃなかったです。

その良さは、よっぽどの落語好きでなければ伝わりません。

シンプルにお前の実力不足だろ!

そうです!売れてりゃ、こんなウダウダ言ってません。

でも、総体的にみると、新作をやる人は『落語らしい表現をする』落語家と、『落語をフリにする』落語家の2つのパターンがあると思いますが、『落語をフリにする』ほうが、キャッチーでお客さんの心を掴みやすく評価されている印象です。落語をベースにして裏切ったほうが、大きな笑いとしてつなげやすいんです。(それぞれ落語家は新作をつくるうえで、いろんなパターンの新作をつくるので、この2つのパターンに分けるのは難しいですが、あくまで総体的にみて)


僕がもし師匠のようにフラがあり、ただやるだけで『落語をフリにする』ことができたなら、それで良かったのかもしれません。

もっと分かりやすく言えば、僕にもっと個性があれば、今のやり方で良かったんです。

その人に個性がなければ、時代や師匠をフリにするという手法をとらなければなりません。

昇太の弟子できっちり古典ができれば、良かったのかもしれない。
じゃあ、時代をフリにしよう!と思っても、今は細分化がすすみ、みんなが同じ方向をむいているわけではない。その中で時代をフリにするのは難しい。

だから、みんなキャッチーで分かりやすいカタカナを入れたり、『落語をフリにする』手法をとっていたのかもしれません。


今の僕にはフリにできているものがありません。

つまり、ギャップがありません。

ギャップがないと、他の演者と差がつきにくいので、面白くても、なんか面白かったなあで終わってしまいます。


フリにしなくても活躍はできます。
今まで、たらたら言ってきたことは、古典やっている人にはあまり当てはまりません。

古典をやっている人は、実力をつけていき、活躍をしている人がめちゃくちゃいます。
若手で落語が上手ければ、
若手なのに、こんなに落語うまいのか!!というギャップが生まれ、活躍できるルートに乗りやすいです。
やはり、落語は古典です。今のやり方でも、古典も新作もどちらも面白いと評価されるという方法もあるでしょう。

ただ、すごく時間がかかります。

(どの道、時間はかかるものなんですが、、)

新作やってて、時間がかかるというのは、なんとも辛いです。

じゃあ、どうするか。

落語をフリにするしかないんです。

でも『落語をフリにする』と言っても、いろんなやり方があります。
全部、例としてあげてもいいんですが、しんどいのでやりませんけど。

じゃあ、どんな形で昇りんはやっていくんだい?というのが今年です。


もちろん、これは一つの要因にすぎないですし、僕の考えなんで、なんとも言えない部分もありますけどね。第一、技術であるとか、そういうものをすっ飛ばして書いてます。

ようは、オリジナリティあればいけるぜっていう、一言ですむ話ですしね。


売れてない若手落語家のうだうだした文章にお付き合いいただき、ありがとうございました。

どんな結果になるのか。
良くも悪くも一年後お楽しみに。

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