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先生と呼ばれる仕事は教えられる仕事

「学校の先生?」
そう聞かれて嬉しかったのは、20代の頃だった。
ずっと、先生という仕事に憧れていたのだ。

勤めていた寿司屋は、小学校の近くにあった。
昼の休憩時間中に、お店の近くの、いわゆる町の商店にお昼ご飯を買いに行っていた。『まかない飯(従業員用お昼ご飯)』は出るのだが、パン好きな私は、焼きたてを出している、この商店のパンが好きだった。
パンを買って、近くの公園のベンチに座って食べるのは、一日のうちでいい気分転換になっていた。公園というのは、夏には夏の、冬には冬の良さがある。

寒さが染みる、ある冬の日。いつものように買いに行くと、店主のおばちゃんに唐突に聞かれたことがある。
「いつも思っていたけど、そこの小学校の先生でしょ?」
いえいえ、違いますと言ったが、学校の先生っぽいとおばちゃんに言われたとき、なんだか、こそばゆい気持ちになった。

『先生』という職業を意識し始めたのは、この頃からだったと思う。
いつしか、先生という仕事につきたいと考えるようになっていた。

考えてみれば、勤める寿司屋でもアルバイトの学生に仕事を教える役目を担っていたが、教育係という役回りがこの頃から好きだった。
学生というのは、教えれば教えるだけ吸収する。日に日に成長していく様をみることは、本当に面白かった。
「学校の先生は、こんな気持ちで日々を過ごしてるのかな」
などと想像を膨らませたりした。

寿司屋で独立したものの、立ち行かなくなり、店をたたんだ後、会社員として働いた。
会社員時代に入るとまもなく、コロナ禍となった。
コロナ禍でオンラインが普及し、私は手帳のコミュニティに入った。
それまで、学生に仕事を教える役はやったことがあったものの、人前に立ったことはほとんどなかった。人前に立つだけで緊張してしまう。人前で話すなんて、もってのほかだった。

しかし、このコミュニティの中で、『万年筆講座』を開くこととなった。
そうは言っても、手をあげたのは私自身だった。
寿司屋という、今ままで培ってきたものがなくなってしまった当時、何もかもに自信を失っていた。そんな自分を打破したい、何かを変えて生きたいと思ったとき、「今ままでやったことがなかったことにチャレンジしてみよう」と思い立ったのだ。

この『万年筆講座』が人生を変えた。
人前で話した経験が、ほとんどなかったのに、「わかりやすい」と評判になったのだ。
そしていつしか、そのコミュニティ内で、『万年筆の先生』という立ち位置になった。

万年筆の知識は持っていなかったが、勉強して授業にする。わかりやすく伝えるにはどうしたらいいか、考えることや、人に教えることが楽しくて仕方なかった。
「先生」と呼ばれることは無かったが、立ち位置は先生だった私は、誰よりも勉強して、万年筆に詳しくなった。

元々、学びを深めながら、人に教えるという、インプットとアウトプットを交互に行うスタイルが好きだった。学生時代から、自分の得意科目や、勉強した内容を人に教えることが好きだったのだ。
このことに気づいたときに、私はもう、40代になっていた。

人生とはこういうものなのかもしれない。
学生時代にこのことに気づいていたら、もっと違う人生もあったかもしれない。
しかし、今からでも遅くはないことを、『万年筆講座』は教えてくれた。

人前で話すことが苦手ではなく、むしろ得意になっていた私は、自分の生い立ちや学童保育の先生との思い出を、『放課後等デイサービス』という、いわゆる障がい児の学童保育で話した。
自分の経験が、誰かの役に立つことがあるかもしれないと、思っての行動がまた人生を動かした。

今、私は『放課後等デイサービス』で働いていて、子供たちに「先生」と呼ばれている。
いつしか夢のように考えていた、先生と呼んでもらえる立場になったのだ。
施設内では、保護者や歓喜者向けに『勉強会』も開く予定をしていて、『万年筆講座』の経験が生きるのではないかと、思っている。

学んだことを、人に教える。
しかし、教えている中で、子供たちにはいろいろなことを教えてもらう。
教えているのに、教えられる経験を味わっている。
『先生』という立場というのは、『生徒』に向かって教えるのではなく、お互いが先生となって、教え合うことができる関係になることだと思うようになった。

気づけば、人に教えることが好きだった私は、教えながら教えられる、こうした相互間系が好きだったのかもしれない。
「子供は親を成長させる」というのは、こういうことなのだ。
子供がいない私は、この歳になってようやく教えられたように思う。

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