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その時、男は急いでいた。(前編)

男は急いでいた。
女を背中に負ぶって。
狩衣の足さばきも、重く感じられるよう。
女は男の背中にほほを寄せて、男の幾分早い歩きの、揺れる背中に身を任せている。

女は姫様と言って差し支えない。
男の背中から零れる衣は、暗くなった空に隠れがちではあるが、それでも美しい刺繍と染絵付けが見えて、女の身分の高さをうかがわせた。
男の歩きに合わせて揺れて、空気を含んで広がり、またそっと男のほほを優しくくすぐる女の髪は、月の影のない今日のような宵の中にも、柔らかく輝いていた。
丁寧にくしけずられて、日々かしずかれる生活を送る姫君のものである。

月の影さえ見えない宵は、やがて雲がちになり、冷たく重い湿った空気をまとうようになった。
だんだんと冷えていく空気に、雨の予感を感じるころ、ぽつりぽつりと埃っぽい地面に真っ黒い染みを作るものがあった。

男は尊い姫を、月のない夜に盗み出した。
何年も何年も姫のもとに通い、通じ合わせた恋だった。
盗み出さねば、通じ合うことのない恋だった。
男は、姫と、夫婦になることはかなわない。

女は男が盗み出してまで思いを遂げようとしていることが不思議で、可愛らしく思えた。
それほどまでに思われるということが、貴いことのように思われた。
日々の暮らしは、倦んだ卵のように、緩慢で、どろりとして、退屈であった。もうすでに何年も何年も女は生活に倦んでいた。女のもとに通って来ようというような胆力を持った男など、女のそれまでの人生には一人もいなかった。女は幾重にも幾重にも張り巡らされた蜘蛛の巣の中でただ育つのを待たれている虫のようであった。ただ食べられるのを待つだけの無力な虫のようであった。もっとも女は虫等というものを実際に見たことはなく、ものを習う手習いの巻物の中にその存在を見つけただけである。
それでも、女は自分が高貴であることを知っており、自分の命運を知っていた。自由に気持ちを動かし、世の人々が落ちるという恋というものを世の人々のように享受することはできないことを知っていた。自分の生命は生まれたときからたった一人のためにあり、そのたった一人の人は自分をたった一人にと望むことが許されない人であったし、望まないであろうことを知っていた。
だから、女は男をいとおしく思った。
儚いものとして、貴く思った。

男の背に揺られながら、かなしく思った。
女は草の上にひかる玉を見つけた。
美しいと思った。
「…あれは、なあに…。」
儚げな、まあるい形の、消えてしまいそうな光を放つそれは、まるで女にとっての男だった。

地面は黒い染みばかりか、底なしの沼のような暗い昏い水たまりをつくるまでになった。
昏い水たまりを蹴散らし、先を急ぐ男だが、雨の勢いはますます強くなるばかりで、いっこうに弱まる気配はない。
男が姫の雨に濡れてしまうのを恐れて姫に掛けた衣も、もうその用を果たさなくなった。
遠く聞こえた雷鳴も、あっという間に近くなった。


急がねばならない道行きではある。
だが、休まないわけにもいかなくなってしまった。
姫の家の者は、そろそろ姫の盗み出されたのに気付いただろうか。
もしくは既に気付かれて追手がかかっているかもしれない。

荒れ果てて所々に隙間の見える、とても人の手の入っているとは思えない小屋があった。高貴な姫君が休むなどとは誰もが到底思い及びもしないような、高貴な姫を休ませようなどとするのをだれもが躊躇い諦めるような小屋があった。
だからこそ、男はこの荒れ果てた小屋で休むことにした。
たとえ追手がかかっていたとしても素通りしてしまうだろうから。
たとえ万が一追手が目を付けたとしても、この小屋の扉を開ける前に止められるよう扉の前にいて、追手を追い払えるようにしようと男は思った。

大切な大切な姫を誰にもとられぬように。



成長するための某かにに使わせていただきます。