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その時、男は急いでいた。(後編)

雨と雷に紛れて甲冑の音が微かに響く。
怒声とも罵声ともつかぬ声が聞こえる。
黒く塗り込められた夜に、松明の焔がまるで幽鬼のようである。

幾つとも知れぬ焔が迫っていた。

夜を幾晩も煮詰めて闇を深くした真っ暗闇の底に、雨をためるようにあたりはぬかるみ、泥と草と雨の匂いに充ちていた。
時折辺りを照らす雷の光と轟音だけが地上であることを思い起こさせた。

まるで息の仕方を忘れたかのように、男は其処にいた。
男はそれが姫を捜すための炎であることを知っていた。


男は姫を守るために戦った。


幾人と刃を交えたか知れぬ。
すでに何のために戦うのかも知れなかった。


姫を奪っていく、幽鬼のように底の知れぬ軍勢に死を覚悟していた。


「あぁっ」という姫の悲鳴は、男の耳には届かなかった。


あとには散々に踏みつけられ襤褸布のようになった男だけがあった。




いつとも知れぬ朝に男は目覚めた。
あの荒ら屋に姫はもういない。






白玉か何ぞと人の問ひし時
                             露と答えて消えなましものを





〈超訳『伊勢物語』芥川〉

成長するための某かにに使わせていただきます。