どれだけ知ってる? スーパーファミコン時代のCD-ROM事情


もともと「プレイステーション」という名称が、スーパーファミコンにくっつく拡張用CD-ROMオプションにつけられた名前だった、ということは、私のnoteを読みにくる方でしたら、だいたい知っていることだと思います。

それとは別に任天堂がフィリップスと提携して独自にCD-ROM機器を出すと発表し、プレイステーションの計画(このCD-ROM機器を後のPS1と区別するためプレイステーション0と呼称します)は破綻し、ソニーは独自路線を歩むことになります。そして任天堂はいつのまにかこのフィリップス系独自CD-ROM(これには正式名称がないのですが死ぬほどわかりづらいので、フィリップスシステムと呼称します)計画をぽしゃってしまい、スーパーファミコンはパワーアップせずそのままニンテンドウ64へと向かうこととなりました。

大雑把にこんな歴史を歩んでいたのですが、皆さん、このプレイステーション0とフィリップスシステム、どこまで内容をご存じですか?

よく「ソニーを牽制するための実態のないペーパープラン」だとか「一向に製品化の気配はなかった」と呼ばれるフィリップスシステムが、どこまで実際には完成していたのか、実はおそろしく資料がありません。

今回の記事はこれらのCD-ROM機器の情報をかき集め、その実態に迫ります。そして同時にこの時代のCD規格、「CD-i」についても解説します。よろしくお願いします。


1.プレイステーション0と、ソニーと任天堂の関わり


まず大きな歴史の流れから確認していきましょう。86年2月、ファミコンの拡張機器としてディスクシステムが発売されました。これをみて首を傾げた技術者がいます。そう、後のプレステの生みの親、ソニーの久夛良木健です。彼はディスクシステムの容量、速度がまったく話にならないものだと思っていました。彼がソニー内で推進していたのは2インチフロッピーディスク。ディスクシステムの10倍で回転し(その分速い!)、容量も10倍以上。これこそファミコンの拡張機器として相応しいはずだと、4月、久夛良木は任天堂に直接赴きプレゼンします。
任天堂の反応は、よく言えば「面白いものがありますね」であり、悪く言えば「今更こられても」でした。熱心に技術的優位性を説きましたが、結局採用されることはありませんでした。2インチフロッピーは任天堂が求めるコストで提供することは困難でした(クイックディスクは安価なのです)。そして後に、ディスクシステム路線は打ち切りとなり、ROMカートリッジに回帰します。

ところが久夛良木は任天堂への営業を止めませんでした。次に開発したPCM音源(録音した音源をそのまま再生する方式)チップを売り込みにかかります。これは任天堂の興味を引きました。当時の主流はFM音源(波形を弄くって音を作り出す方式)で、ディスクシステムにも一部それに近い音源が採用されていましたが、次世代音源としての出来はPCM音源チップのほうが良かったのです。FM音源との聞き比べテストの結果、次世代機スーパーファミコンではPCMが採用されることとなりました。

ここから任天堂とソニーは関係を強めていきます。スーパーファミコンの開発用マシンとして、ソニーのワークステーションNEWSが採用されました。ソニーは以前からこういったコンピュータ関連に力をいれていて、個人向けはHiTBiTブランドでハード(MSX系統や、自社オリジナルのSMC-777にも使われています)やソフトを売り、法人向けとしてこのNEWSを展開していました。
ところがこのNEWS、1987年の発売以降、ものすごく売れ続けた大ヒット商品……とはお世辞にも言えませんでした。そんな中、大口の顧客として任天堂がどん、と現れた形です。一台1000万円という価格だったんですが、これがスーパーファミコン向けに開発したいというサードパーティ向けに売られていきました。5人開発チームがいれば5台必要なので,その時点で5000万円の売上になります。スーパーファミコンは当初から精力的に各社開発を進めていたので、相当な売上になったのではないでしょうか(個人的には音源チップを安く買えるかわりに、このNEWSを購入する契約なんかが組まれていたんじゃないか、と思います)。

関係を深めた任天堂に対して久夛良木は営業を強めます。今度はCD-ROMを推進します。ROMカートリッジよりも生産しやすく、コストも安く、大容量! スーパーファミコンの別オプションとして最適だと説いて回りました。

実は85年あたりで任天堂はCD-ROMの存在を認識しています。NECがCD-ROMをもって各社をまわりゲーム機をつくろうといって回っているのです。その中に任天堂も入っていたわけですが、任天堂はこれを断っています(結果的にNECは自前でチップをつくっていたハドソンと合流し、PCエンジンになります)。

任天堂はCD-ROMにあまり興味をもっていませんでした。理由はいくつかあげられます。CD自体が安くとも、その読み取りする本体は可動部も多く処理するためのチップも多いので非常にコストが高いのです。この時代のPCエンジンCD-ROM2はインターフェースユニットは27,000円に、CD-ROM32,800円でした(何故別れているかというと、消費税導入前は物品税というものがあり、それがCD-ROMにかかるので、物品税がかからないインターフェースユニットは別売りにして税金を少なくしようとしたのです)。メガCDも91年登場なのですが49,800円です。CD-ROMは高いのです。

また、CDは読込速度が遅く、ロードが長くなりがちです。大容量なことはいいのですが、だからといってちょっと進んだらロード、メニュー開いたらロード、では話になりません。任天堂はこの後の次世代機、ニンテンドウ64でもROMにこだわっています。あと、コピーが容易すぎるという問題もありました(と言ってもROMもROMで結構コピーされていますが)。

そんな任天堂ではありましたが久夛良木は熱心に口説き、そして契約を結ぶことに成功します。スーパーファミコン発売前の90年1月、ソニー・任天堂間の間でCD-ROMの契約が結ばれました。この契約……というのが謎で、詳しいことは誰にもわかりません。ゲームは任天堂、非ゲームはソニーが窓口となる、だとか、すべてがソニーが受け持つ、だとか、情報が交錯しています。ただ、ソニーが主導でCD-ROMを作り、後付けオプションではなくSFC一体型にする、というのが決まりました。それに必要な部材は任天堂から買い付ける話となっています。

久夛良木は秘密主義で、任天堂の契約書を本社の人間には見せなかったと言われています。「これを見せたらプロジェクトが上手くいかなくなる」という理由で。自由奔放な気質で、それ故ソニー内の問題児扱いされていましたが、当時のソニー大賀社長にはその才能と能力を評価されており、ある程度の自由を獲得していました(久夛良木の直属の上司は、なんとこの大賀社長です)。契約書には大賀社長本人のサインがなされているので、それ以外の人には見せる必要ないでしょ、みたいな算段だったのかもしれません。

ところがこの契約が、当時のNintendo of America社長荒川實の目につきました。彼は任天堂山内社長の娘婿で、実質任天堂のNo2でした。彼はアメリカで過ごし、その契約社会を肌で知っていたせいか、この契約に異議を唱えた……とされています。

90年中、ソニー内ではプレイステーション0に向けての様々な計画が立ち上がりました。システムサコムと提携しフォルテッサなるシューティングゲームや、他いくつかの開発を開始します。ただ、あまり評価はよろしくなく、社内・社外評価とも上々とは言えませんでした。見かねた任天堂が叱咤激励にくるほどでした。

このプレイステーション0がどういう機械だったのか、というと、「CD-ROMが読み込んだ動画の上に、スーパーファミコンが処理したキャラを貼り付けて描写する」的なことができるハードだったようです。先述したフォルテッサも、かつてのLDゲームのように流れる背景をCD-ROMからストリーミング(youtubeみたいに、保存しないでそのまま動画を垂れ流しにする手法です)で流し、その手前にスーパーファミコン側の描写を重ねる手法をとったシューティングゲームでした。目指すは91年秋の発売で、想定価格は49800円程度。スーパーファミコンの拡張機器ではなく、見栄えの良い一体型となりました(ただしこれの信頼性は保証できません。あくまで説、です。個人的には90年1月に本格始動した拡張機器に、91年秋でゲームが間に合うというのは厳しい気がします)。

この時、ソニー側はSME(ソニー・ミュージックエンタテインメント)も巻き込んで、このCD-ROM計画を推進します。SMEは音楽事業企業で、CD-ROMには非常に強い関心を持っていました。カラオケを家庭でできるようになるのではないか! と後にSCEの生みの親の一人になる丸山 茂雄は語っていますし、フォルテッサも主導はSMEのひとたちです。SME内にはEPICソニーというレーベルがあり、そのEPICソニーは実際にゲームを作っていて、ファミコンでも発売していました。ソニーとゲームは結構縁があったのです。


2.91年夏 あの家電ショーの背景は


話がおかしくなるのは91年6月です。この時、アメリカの家電ショーCES(Consumer Electronics Show)が行われていました。ソニーは大々的にプレイステーション0の発表を行います。

「任天堂のスーパーファミコン用拡張機器としてプレイステーションを発表致します!」

ところが同日、フィリップスがよくわからない発表をします。

「当社のCD-i向けに任天堂がゲームを提供してくれます!」

この時代、プレイステーション0とは別に、フィリップスはCD-iという規格を推進していました。

少し話が前後しますが、フィリップスは元々ソニーと手を組んでCDという規格自体を作り上げたオランダのハイテク企業です。その技術力は折り紙付きで、音楽CDを策定したあと、それをPCのデータを扱えるようCD-ROMという規格を作りました。これは単純に手直ししたのではなく、徹底的に手をいれています。
音楽では一瞬音が飛んだりしても人の耳に影響はまずありませんが、PCの世界で1bitでもデータが変わったらそれは全てのデータがおかしくなることと同じです。なのでエラー訂正機能を強化しました。

こうして音楽CDと、CD-ROMという二つの規格ができあがったわけですが、フィリップスとソニーはこの規格を拡張し、より使いやすいものを目指していきました。

音楽をADPCM(圧縮がきいたPCM)で収録し、空いた容量に画像やプログラムを自由に入れて、かつストリーミングで動画を扱える第三の規格……これがCD-iです。85-6年あたりでフィリップスとソニーは一気に盛り上がり、これを活用したマルチメディアマシン規格を実現させようと動きました。

具体的な集積回路設計の段階になると松下も参加して、かなり大きな話になってきます。OSを決めて、CPUを32bitのものを載せたものを統一規格として定めました。つまりハードを各社で出そうという発想です。各社CD-i規格対応プレイヤーを出して、ソフトも作って……ということですね(このあたりの動きはもう、完全に後年の3DOと同じ道を歩んでいます)。ゲームもできるけれど、マルチメディア機なので映画再生機やミュージックプレイヤーとして活用できると睨んでいました。

ところがこの時代、ファミコンが猛威を振るってMSXを中心にしたホビーパソコン勢を抜き去ってしまってます。アタリショックがあった北米でもNESが一気に普及軌道にのりました。「これでマルチメディア機を出してもファミコンに勝てなくないか?」という当然の疑問が各社からあがります。そして同時に「いったい何年かけたらハードの現物ができあがるんだ?」という不満も吹き上がる状況に陥りました。86年に暫定規格を宣言してから、一向に現物ができる気配はありませんでした。言い出しっぺのフィリップスだけは唯一「CD-iはマルチメディア機だ。ゲーム機に負けるはずはない」という態度で、推進します。ソニーはいつのまにか手を引き始め、任天堂と手を組んだプレイステーション0方面に注力します。

CD-iに参画した企業はフィリップス、ソニー、松下の他、ヤマハ、富士通テン、三洋電機、パイオニア、シャープ、リコー、マスプロ、LG電子と、そうそうたる面子です。ところが実際にCD-iのハードを日本で出した企業はLG電子、マスプロと、あとはソニーとフィリップスだけ。しかもソニーは業務用モデルを出しただけで個人向けモデルを出さずにフェードアウトしていきました。

フィリップスが個人向けCD-iモデルを日本で出すのは1992年なのですが、91年6月のこの時点で当初のもくろみは完全に崩れており、独力でCD-iを普及させねばならない状態でした。

そんな状況でなぜ、敵に近い存在である任天堂がソフトを出すと言い出したのか? おそらく当時のソニーの関係者は首を傾げたことでしょうが、実はこれ自体はギリギリ理解の範囲内ではあったんです。

任天堂はプレイステーション0でスーパーファミコン用CD-ROMゲームを提供する一方で、CD-iにも参加して、ゲームを出す二正面作戦、ということです。セガが自社ハードを発売しつつも他社にライセンスを貸して、ファミコンでファンタジーゾーンを展開していたのと似てるかもしれません。ゲーム機であるスーパーファミコンとマルチメディアマシンなCD-iでは直接市場が重ならない、という判断もあったことでしょう。

本当の衝撃は翌日でした。任天堂がプレイステーション0でもない、CD-iでもない、フィリップスシステムの発表を行いました。任天堂はこちらのCD-ROMでゲームを出します。なんかソニーがCD-ROM拡張オプション出すみたいですけど、うちの本命はこっちです。……端的にいうとこういう発表です。

ソニーは大慌てです。全くもって意味がわかりません。提携している相手が似てるけれど全くの別物を自分たちで作り出すと言い始めたのです。面子が丸潰れの話です。

このフィリップスシステム、いったいどういう経緯で出てきたものなのか? なんとかわかるところをかいつまんで解説すると、以下のようになります。

前述した通り、NOAの荒川が契約を危険視しています。その後、任天堂は独自にCD-ROM機を作る道を模索しはじめます。ファミコン、スーパーファミコンを設計したリコーの人たちにも「CD-ROMを作れないか?」という相談を持ち掛けました。

そこでリコー経由でフィリップスに話がいきました。CD-i云々は抜きにしても、CD-ROMの技術はソニーとならぶものを有していますから、当然です。

CD-ROMの技術は手に入れましたが、問題はそれだけでは終わりません。CD-ROMユニットの他に、機能アップするかどうかの問題がありました。PCエンジンのCD-ROMにはCD-ROM用の制御チップが載っていますが、メガCDにはそのほかにメガドライブ本体よりも高性能なCPUが積まれていて、かつ拡大・縮小・回転機能を有したビデオチップも搭載しています。つまり、CD-ROMの大容量を扱うようにした上で、本体機能を補助するパワーアップを同時に行っています。

任天堂はどちらを選択したのでしょうか。
任天堂は持っている技術を全て使い、メガCDのようなパワーアップ路線を歩むことになりました。


3.フィリップスシステムの中身と元ネタ


ここで話を90年に戻します(全然時計の針が先に進みませんねこの記事)。とある男が自前のゲームをもって、任天堂を訪れました。彼の名はジェズ・サンアルゴノートソフトウェアというイギリスの企業の創設者であり社長です。アルゴノートはPCの世界で名を馳せていた企業で、Amigaやマッキントッシュ、MS-DOS向けにゲームを出していました。その一つが「StarGlider2」です。



このゲームはワイヤーフレームではなくポリゴンで描写されています。技術的な評価は非常に高く、Amigaの最高のゲームという評価を与えた雑誌もありました。

ジェズ・サンはこの時まだ24歳でした。高い技術力と豊富な知識、そして強烈な好奇心がありました。彼の興味は家庭用ゲーム機にも向きます。当時発売されたばかりのゲームボーイ(ゲームボーイは欧州では90年に発売されました)に注目し、これを弄くることにしました。その結果、ゲームボーイのプロテクトガードは完全にハックされ、電源を入れると出てくる「Nintendo」「Argonaut」に変えられました。その上、3D描写したデモソフトが稼働していました。そしてこれをもって彼は任天堂へ行きます。

「おい見てくれ! 俺たちはプロテクトガードを外しただけじゃなくて、ゲームボーイ初の3Dソフトを作って見せたぜ!」

任天堂はとてつもない衝撃を受けました。

任天堂からのリアクションはなんだったでしょうか。訴訟? いえ、違います。ジェズを丁重にもてなし、そのまま日本につれて宮本茂や山内社長に紹介したのです。

彼は知識を披露し、3Dの能力が本物であることを証明して見せました。任天堂は深く感銘を受け、発売前だったスーパーマリオワールドをプロトタイプの本体と一緒に彼にプレゼントしました。おそらく任天堂外の人間で世界で一番早くスーパーマリオワールドをクリアした男はこのジェズです。

彼と任天堂との間に契約が結ばれました。彼の3Dの知識を任天堂内に広く普及させるというものです。これは非常に相性のいい組み合わせでした。アルゴノートはテクノロジーの会社であり、任天堂はクリエイティブの会社でした。双方が足りないものを補う合う理想型となったのです。

その後、彼はStarGlider1をベースにしたオリジナルのゲームのNESバージョンを持ってきます。山内社長、宮本茂らの前でプレゼンを行いました。任天堂は非常に興味をもったらしく、当時開発途中のパイロットウィングスのプロトタイプを彼に見せました。ポリゴンはこの時代、アーケードのレースゲームに活用されていた技術ではありましたが、任天堂はスーパーファミコンではポリゴン描写をするのは不可能と考えていました。ところがジェズはスーパーファミコンどころかNESで3Dゲームを動かして見せました(これをジェズはNESGliderと呼びました)。SNESだとどうなるんだ? という任天堂からの問いに、ジェズは一週間かけてSNESバージョンを作り上げ、再度見せました。そしてこの時「ハードウェアの設計をさせてもらえれば、もっといいものが出来る」と言いました。アルゴノートはハードウェアの設計を一度もしたことがなかったのに。

山内社長は「本当にそんなことができるのか?」と確認し、ジェズは「10倍は速くすることが出来ます」と答えました。続けて山内社長はこう尋ねました。「いくら必要なんだ?」と。

ジェズは一瞬の間、必死に思考を巡らせ、思いつく限りの最大限の数字を言いました。「100万ドル」と。山内社長は即「わかった」とだけ言い残し、部屋から出て行きました。

ジェズはこの発言をすぐに後悔しました。「1000万ドルと言っておけば良かった」と。

とにかく彼は大いに張り切り、この大事業をやってみせました。ケンブリッジ大学からハードウェアの専門家を雇い、「必要なソフトウェア命令から逆算してハードを構築する」という手法で新しいハードを作っていきます。そして誕生したのがスーパーFXチップです。皆さんご存じ、スターフォックスのカセット内に搭載されているコプロセッサ(補助装置)です。


(こうしてみると上記のStarGlider2とよく似ている……)

スーパーFXは特殊で、補助チップでありながらほとんどの計算を単体で行うことができます。今のパソコンでいうところのCPUとGPUとそれを接続するIOがそのまんま内蔵されて一つになっているようなイメージです。この後のパソコンの世界では3DアクセラレーターというGPUのご先祖様みたいなものが勃興はじめますが、それよりも先んじてアルゴノートはGPUのご先祖を作り上げたと言えます。

なお、スーパーFXはあまりに自前で計算ができすぎたので、ジェズは冗談で「スターフォックスはスーパーFXがメインで、SNESはただ電気を流しているだけだ」といったこともあるそうです。最終的に速度は10倍を遥かに超え、40倍になりました。

このチップには山内社長も非常に満足したようで、この頃のインタビューでしきりに「これからの時代はコプロセッサの時代だ」と盛んにいうようになります。

なんということでしょう。任天堂はフィリップスシステムに搭載できるパワーアップ技術を、すでに手に入れていたのです。CD-ROMとは全く別のところで。

4.フィリップスシステムの仕様


任天堂はこのスーパーFXをフィリップスシステムに組み込むことにしました。これで動画を読み込むだけではなく、相応に速いポリゴン処理も可能となりました。スターフォックスで搭載されたスーパーFXの、さらに改良版を積むことが確定しました。

細かな問題点は他にもありました。まず、CD-ROMにはセーブがありません。CDなんですから当然です。後のPS1ではメモリーカードを採用することでクリアしていますが(PCエンジンは別のバックアップ装置天の声2にて対応しました)、任天堂の発想は斜め上にいきました。CD-ROM自体をカートリッジに収納してしまい(つまりDVD-RAMみたいなもので……DVD-RAMを知らない? じゃあ、でっかいMDみたいなものです。MDを知らない? ……ググって下さい)、その中に電池とメモリを組み込んでしまったのです。これでCD-ROMでもセーブができるようになりました。おまけに接触面を保護することができたので、子供向けにも耐久力を発揮することができました。

92年中にはサードパーティ向けに技術説明会も行われました。この説明会では詳細なスペックと今後のスケジュールが公開されましたし、規格はCD-ROM XAであると説明されました。CD-ROM XAとは、CD-iの規格をベースに、OSやCPUの制限を取っ払った規格です(元のCPUがスーパーファミコンやスーパーFXなので、まぁCD-iのままでは動かないのでしょう。互換は検討されていたようです)。発売予定は93年1月となりました。開発機の提供が実際にされていたかは不明なのですが、噂レベルでは任天堂に近いサードパーティにのみ配布されていた、なんていうのがあります。


5.プレイステーション0の動向


こんなフィリップスシステムの一方で、プレイステーション0の動きはどうだったのでしょうか? 実は説が二つあります。一つは精一杯任天堂と交渉しつづけたけど和解しきれず独自路線、と、もう一つが早々に諦め早くから独自路線を模索していた、というものです。91年当時EPICソニーに在籍していてSCEの立ち上げメンバーの一人となった赤川良二は、当時を振り返って「状況を見極め、現実的な対応として『プレイステーションのプロジェクトを中止、あるいは中断する』という結論を対外的アナウンスすることになったのは、91年の終わり頃だったと記憶しています」と記述しています。

これですと91年6月のCESにて任天堂がフィリップスシステムの発表ですから、かなり早期にソニーは諦め、独自路線を模索していたこととなります。有名な「Do it!」の取締役会議が92年6月なので、そこでPS1の誕生が既定路線に乗ったこととなります。

ところがちょっとおかしなことに、92年10月1日に、日経新聞がこんな記事を出しています。

任天堂・ソニー CD-ROMプレイヤー来夏にも互換機発売
任天堂とソニーは家庭用のゲーム機として利用できるCD-ROMプレイヤーの開発、生産で締結した。来年半ばにも互換性のある製品を日米で発売する。

日経新聞1992年10月1日

これですと、まだソニーは任天堂との提携を諦め切れてなかったように見えます。もしくは日経の誤報でしょうか? ところが翌月、日経新聞はこんな記事を出しました。

ソニーのCD-ROMゲーム機 任天堂との互換機棚上げ 別規格含め再検討
(中略)ソニーによれば、ゲーム機の発売を無期延期とした後も、任天堂との契約関係は持続する。

日経新聞1992年11月10日

この流れを見るに、日経新聞はきちんと取材をした上で記事を書いているように見えます。実際の所はどうだったのでしょうか? 久夛良木は業務報告書を書いており、その一部が「久夛良木健のプレステ革命」に載っています。それを引用しましょう。

92年 1月
紆余曲折の一年だった。交渉の結果、両者互換を取ることで一応は合意した。しかしソニーがなぜこの事業をやるのかというコンセンサスが社内では得られていない。任天堂に過度な期待をしたり、盲目的な善意で対処したり、こんなことをしているうちにタイミングをいたずらに逃していく。

久夛良木健のプレステ革命 P58

つまりこの時点ではギリギリソニー本体は任天堂との関係を修復させようとしているように見えます。同時に久夛良木個人はもう任天堂を見切っている感じがあります。

実はこの時代、ソニーが任天堂に配慮したエピソードがあります。91年8月、EPICソニーからスーパーファミコン向けソフト、「白熱プロ野球ガンバリーグ」というゲームが発売されました。これはちょうど新作ソフトの切れ目に発売することが出来、問屋・小売から合計20万本の注文を得ることが出来ました。これはEPICソニーの歴史からいうとかなりのヒットだったらしく、プレイステーション0の出来事があった直後で嬉しいニュースでした。

ところが消費者から次々にクレームが届くようになりました。いわく「スイッチを入れても画面が映らない!」というものです。

スーパーファミコン用に出されるゲームは、かならず任天堂がチェックをします。そのゲーム内容もそうですが、スーパーファミコンにはいくつかバージョン違いがあるので、一部バージョンで動かない、なんてものがあってはならないので、任天堂が全部確認をするのです。当然、ガンバリーグもこのチェックを通って発売されました。

ならばガンバリーグが動かないのはいったい何故か?? 任天堂が原因究明に動き、EPICソニーに説明をしました。「一時期生産分の、特定のスーパーファミコンにのみ、起きる現象。本体の欠陥ではなくソフトとの相性である」というものでした。

この説明にEPICソニーはぶち切れます。「相性ってなんだ! 本体の欠陥じゃないか!」 EPICソニー側も自前で調査しているので、自分たちのバグではないと確信していました。同時に任天堂チェックを通った認定証がFAXで届いていたので、それをもって裁判沙汰まで視野に入っていました。つまりチェックが節穴だった任天堂に損害賠償を請求したるぞ! という勢いです。

ところがそんなEPICソニーに本社は待ったをかけました。「頼むから大事にしないでくれ」というお願いをEPICソニーにしています。これはつまり、まだ修復可能なプレイステーション0計画が、このトラブルで完全に破綻に追い込まれてしまうのではないか、という恐れを抱いていたと推測できます。

EPICソニーはソニー本体のお願いをしぶしぶ聞き入れます。こうしてこの話はEPICソニーが自前で修正版を用意するという和解に向かったのですが、この後発売される摩訶摩訶も「あまりにもバグだらけなので任天堂チェックは通らないだろうと思ったら通ってしまった」プログラマーが述べていますし、そのさらに後のロックマンXもコピーガードが暴走して回収騒ぎとなっています。任天堂チェックといえども、そもそも完全完璧ではなかったことが覗えます。

おそらくはソニー内でも「任天堂との関係修復」「ゲームからの完全撤退」「独自でゲームへ参入」か、決めかねていてどの選択肢もいけるようそれぞれに注力していたものと思われます。SCE創業時に副社長だった徳中暉久はインタビュー内で

「任天堂との話がおかしくなってから、久夛良木は非常に落ち込んでいた。そのとき『任天堂の土俵で勝負しようと思ったらこうなったのだから、自分の土俵を作ればどうか』とアドバイスをしたことがあり、その後日PS1の元ネタを持ってきて『こういうことを考えている』という話をしてきた」

という内容の話をしています。久夛良木自身は早期に独自路線、ソニー内でも関係修復派と、完全撤退派がそれぞれに動いていた、という状況だったのではないでしょうか。

この時、任天堂に納入する音源チップの供給停止の話も内部であがりますが、結局没になりました。関係修復の可能性を完全に打ち切ってしまうことになりますし、そもそも契約問題でこじれたから部材供給を停止する、という行為は自身の信頼を損なうものです。やれるものではありません。

契約不履行による裁判を起こす案もでましたが、任天堂はソニーのCD-ROM案を拒絶したわけではありません。出すのはご自由に、うちはゲームは出しませんよ、という具合なので、この辺りも攻め筋としては無謀な気がします。結局実行には至っていません。

そんなわけでプレイステーション0計画は久夛良木の主張により次第に独自路線へと向かい、完全に終了となりました。92年6月、「Do it!」の会議後、仕切り直し、新たに立ち上がったのがプレイステーション1計画です。ここから先の歴史は、皆さんが知る通りです。ただ、前述の通り92年10月でいったん任天堂との再契約の話が持ち上がるので、ここらはもしかしたら「騙されっぱなしだった任天堂相手に一発反撃を食らわしてやろう」なんて考えがあったのかもしれません。


6.フィリップスシステムの動向



さて、こうしたソニー側の静かな反撃はなにか任天堂に影響をあたえたでしょうか? おそらくは関係なかったと思われます。

そもそも、NOAの荒川が危惧したような「最初の契約に不備があり権益が全部持って行かれる」みたいな状況だとしたら、それこそフィリップスシステムなんて真面目につくる必要はなくて、ペーパープランでいいわけですよね。フィリップスを巻き込んで、それっぽい計画を立て、で、ソニーさんどうしますか? みたいな。それでソニーが再契約して、より任天堂優位なものであればよし、という。

しかしフィリップスシステムの立ち上げ以降、任天堂はソニーのことを気にかけていないように思われます。インタビューでも触れることなく、本命はフィリップスシステムのほうですとばかり。たまに触れるとしたら「ソニーのほうとは互換性はありません」程度。

私の主観でありますが、このあたり、完全に任天堂はソニーと袂を分かつつもりだったんじゃないでしょうか。ソニーと再契約して、実際にプレイステーション0が発売されたとしても、それはそれでメインはフィリップスシステムですよ、という姿勢。ソニーなんてもう知ったことではありません。
スーパーファミコンの開発マシンであるNEWSも、代行としてPC9801をベースとした廉価版が用意されました(といっても数百万したそうです)。音源チップだけはどうにもならないのですが、以降の任天堂機にソニー製の音源チップが載ることはありませんでした。

なぜこんな状況に陥ったのかは不明です。異様に任天堂側の口が堅いため、証言がほとんどありません。プレイステーション1の成功のおかげで裏話をペラペラ喋ってくれるSCE側とは大違いです。

そして結局、ここまで作ったフィリップスシステムは世に出ることはありませんでした。いつのまにか消えてなくなりました。実機が見つかったプレイステーション0と違い、実機も開発機も見当たりません。ただ「説明会に行ったことがある」という証言が残るだけ、です。

なぜフィリップスシステムは世に出なかったのか。これは公式からの発表は全くないので推測するしかありません。参考までに、当時ファミリーコンピューターマガジン誌編集長だったさあにん氏の私見を紹介致します。

補足となりますが、この時代、確かにROMの価格が高騰しており、それが小売価格に反映されています。90年発売のアクトレイザーは8000円、91年のFF4は8800円ですが、92年頭のロマンシングサガは9500円、92年末のFF5は9800円です。光栄は一万円越えの価格を出すのが当たり前になってきますし、同時にROMの大容量化を求める動きもあるので、コスト高に歯止めがかからない状況です。CD-ROMへの移行はROMの高騰化が背景にありました。

ただ、92年10月から任天堂はメガチップス社と契約を結び、日本製のROMだけではなく安い台湾製のROMも仕入れるようになっています。それまで任天堂は日本製のROMにこだわっていたのですが、じわじわと比率が逆転していきます。ニンテンドウ64以降は完全に台湾製に切り替わりました。

おそらく、ここで任天堂は「無理にCD-ROMへと移行しなくとも、ROMの高騰はなんとかなる」と踏んだのではないでしょうか。ただ実際には大容量化もあり、そのまま値上がり傾向は95年くらいまで続き、全体的なピークが過ぎた96年の春以降、ようやく小売価格は下落していきます。

もう一つの推測ですが、この時期にSGIと提携し、ニンテンドウ64の構想が出来上がってきています。「コプロセッサを増設したパワーアップスーパーファミコン」ではなく「完全新規の次世代機」のほうが、よりパワフルであることは自明でした。なので、「無理にCD-ROM機を出す必要はない」という判断を下したのではないでしょうか。

スーパーFXチップは結局、CD-ROMと組み合うことはありませんでしたが、様々なゲームに搭載され1000万個以上のチップが出荷されていきました。アルゴノーツはその後、任天堂から離れ独自路線を歩むことになりますが、その後紆余曲折あり2004年に解散しています。


7.CD-iの顛末


プレイステーション0とフィリップスシステムは結局世に出ることなく歴史の影に隠れて消えていきました。この時代、任天堂が絡んで世に出たのは唯一、CD-iだけです。これはいったいどうなったのでしょうか?

結局「任天堂製のゲーム」がCD-iに出ることはありませんでした。任天堂のライセンスを受けて、ゼルダとマリオを銘打つ任天堂がほとんど開発に関わっていない作品が4つほど発売されました。それのどれもこれもが低評価です。



サムネイルだけで低評価な理由がわかりそうなものですが、ゲームプレイのほうもなかなかのものだったそうです(未プレイなのであまり踏み込みません)。

どうして任天堂がこんなのをライセンスしちまったんだ!? と思う方もおられるかもしれませんが、実は時代背景を考えるとあまりおかしなことでもないのです。日本ではあまり例がありませんが(ハドソンのスーパーマリオブラザーズスペシャルといったものがあります)、アメリカでは結構任天堂はライセンスを他社に貸しています。その一つがMario is Missing!です。


これはパブリッシャーと開発会社を変えつつ、SNES、NES、MS-DOSと多岐に発売されました。任天堂はライセンスを貸しただけで、開発には携わっていません。

ゲームの内容は要するに教育ゲームで、クッパに捕らえられたマリオを助けるため、ルイージが世界の都市を回って、宝物を探したり、ランドマークを見つけたり、それらに関するクイズに答えたりするものです。つまりルイージマンションよりも先んじた、ルイージが主人公のゲームです。

当時、アメリカでは教育ゲームという市場が出来上がっていました。ここに任天堂も食い込むべきではないか、我が社には子供に大人気のマリオがいる。ならば! そう考えてのライセンス貸出でした。今ではちょっと考えられませんが、その当時の任天堂はマリオを貸すという行為にあまり忌避感を抱いていなかったのです。このMario is Missing!は93年に発売され、CD-iで出たマリオとゼルダのシリーズも似たような頃に展開しています。

もしくは当初の「任天堂がCD-iでゲームを出す」という契約を反故にしたかわりに、マリオとゼルダのライセンスを貸した、ということがあったのかもしれません。いずれにせよ、間接的ではありますがこれらのゲームがこの時代唯一の「CD-ROMゲーム機で任天堂が関わった作品」となりました。皮肉なことに、Mario is Missing!はMS-DOSでCD-ROM版も
でています。

CD-iはこれらのソフトを出したことでセールス的に上向いたでしょうか? いいえ、全く変わりがありませんでした。

もともとCD-iの個人向けプレイヤー、最初の200 シリーズにはゲームのコントローラーは付属しておらず、リモコンだけでした。マルチメディア機なのでゲームコントローラーは別売りです。当初799ドルでしたが、一年たたずに599ドルに値下げされました。売れなかったからです。
その後、新モデルを次々にフィリップスは出していきますが、CD-iの規格上、どんなに高性能なCPUやビデオチップを積んだところでCD-iソフトの動作は全然変わりません。全く同じ動作をします。
しかしあまりに発売が遅すぎたために、最初の規格で決めてしまった仕様があまりに古くなり過ぎ、登場時点ですでに時代遅れになっていました。まともなゲームを作るスペックを、CD-iは確保できていなかったのです。フィリップスは新モデルをつくる際、フロッピーディスクドライブを搭載したり、拡張端子であるパラレルポート端子やSCSI端子を追加したりしました。ZIPドライブやプリンタも発売しました。

方向性が迷子になっていたことをフィリップスは94年に自覚しました。一度仕切り直すためにCD-iをゲーム機であると宣伝するようになります。「CD-iはマルチメディア機だ。ゲーム機に負けるはずはない」という態度を取っていたフィリップスは「ゲーム機です。CD-iはとても優れたゲーム機ですよ!」という羽目になりました。ゲーム機らしくカスタムされ、コントローラーもきちんと付属したプレイヤーが299ドルで売られました。ゲームもバンドルするようになりました。しかし、いくらなんでもこれは判断が遅すぎました。翌年の95年にはセガサターンと、プレイステーションが登場するのですから。その上、プレイステーションは299ドルでした。CD-iに勝ち目はなくなりました。

1996年、フィリップスは正式にCD-iを撤退させました。損失は10億ドルと推察されています。奇しくも任天堂がCD-ROMを使わない、ニンテンドウ64を発売した年に、CD-iは終わりを迎えたのです。

以降、フィリップスがゲーム機を出すことはありませんでした。ところが、このCD-iは非常に強い影響を間接的にゲームに与えることができました。

根幹部分である「音楽と動画を読み込む」ことにおいて、CD-iは非常に優れていました。それ故、CPUやOSといったCD-iの制限を省いたものが、新たにCD-ROM XAとして制定されたのは先述の通りです。

これはプレイステーション1にも組み込まれ、規格として活用され、生き続けることになりました。実際にパラッパラッパーのような音楽と動画を活用したゲームには、このCD-ROM XAが使われています。


8.  誰も真実を知らない



プレイステーション0、フィリップスシステム、CD-i、この時代。CD-ROMとゲーム機を結びつけようとして各社が試行錯誤していました。

その結果、任天堂、ソニー、フィリップスの三者が奇妙な関係を構築し、そして破綻させました。破綻の理由は結局のところ、わかりません。当時、一番近くでプレイステーション0を見ていた久夛良木はこの件について、その原因について、詳細を語っていません。

「ある共同開発のプロジェクトが、一方の事情が変わって頓挫してしまう」というのは、一般的にも起こり得ることです。ソニーでは他社との間で多くの共同開発プロジェクトを手がけていましたが、最終的な成果にたどり着けなかった企画もいくつか存在していました。ただ今回は、「ソニーと任天堂の共同開発が頓挫した」という点で大騒ぎになりました。 ソニーは「世界のソニー」としての矜持と自負がありましたし、任天堂も「ファミコン」で世界のビデオゲーム市場を席巻中でした。そんな時代に、全国紙や週刊誌に「任天堂に袖にされたソニー」「ソニー破談!」というような記事が相次いで掲載されたものですから、それはもう大変でした。

https://www.cesa.or.jp/efforts/keifu/kutaragi/kutaragi03.html

任天堂側もこの件に関して正式なアナウンスを行っていません。何が原因で、何が問題で、このような破綻を迎えたのか、結局のところ謎のままです。

歴史にifはない、といいます。しかし我々は「もしも?」を楽しむことができます。もし、プレイステーション0が無事発売できていたら? フィリップスシステムが発売していたら? それが起きるにはいったい何が必要だったのか? いったい何故破綻が起きてしまったのか? それを考えて楽しむことは決して悪いことではないでしょう。しかし、それを楽しむためには正確な知識が必要となります。「誰も真実を知らない」ということを頭にいれ、その上で勝手な「もしも?」を楽しむことにしましょう。

長々とお疲れ様でした。それではまた次の記事でお会いしましょう。



Special Thanks


岩崎啓眞@スマホゲーム屋+α @snapwith

さあにん@山本直人 @sarnin


参考文献

証言・『革命』はこうして始まった           赤川良二
プレイステーション 大ヒットの真実          山下敦史
久夛良木健のプレステ革命               麻生怜士
SONYの旋律 私の履歴書               大賀典雄
美学vs実利 「チーム久夛良木」対任天堂の総力戦15年史 西田宗千佳

参考Webサイト

https://pubs.iir.hit-u.ac.jp/admin/ja/pdfs/file/2269
(pdfです。注意!)

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