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バーで聞いた不思議な飲み方

最近はめっきりだが、少し前は近所のバーに足繁く通っていた。
カウンターだけの小さなその店ではいろんな出会いがあった。
酒との出会いはもちろんだが、人との出会いも一期一会で面白い。

歳が倍も離れたおじさんの話、やさぐれたお姉さんとキスした日もあった。全てはいい思い出だ。

「それを手のひらで温めてください」
そう言ったのは40歳くらいの長髪で全身黒色の服を着た痩せ型の男だった。
よく覚えては無いけど、席が隣になってなんだか話が盛り上がり、「僕のおすすめの、普通じゃないウイスキー呑み方があるのでヤリませんか?」と言われた。

そんなことを言われたら試さずにはいられまい。
「お願いします」とオレは言った。

「アードベック10年を二つ」と男はマスターに注文した。「それと水」。
グレンケアンのノージンググラスにワンショットづつ注がれたアードベック10年と小さな水差しに入ったミネラルウォーターが提供された。
男はまるで卵を温めるかのように両の手でグラスを包み込んだ。

「それを手のひらで温めてください」
オレは言われるがまま両の手で包んで温めた。

どのくらいの時間が経っただろうか。
先程までの盛り上がりはなく2人は黙りこくって包み込んだグラスを見つめている。
それはまるで魔法の水晶に未来が映るのを今か今かと待っているように滑稽だった。

男はおもむろにアードベック10年に水を注いだ。
その様子は針に糸を通すかのように繊細に映った。

オレも慌てて水を注ぐ。だが、どれほど注げば良いのかわからない。
見た感じは1:1ぐらいだろうか。いわゆるトワイスアップというやつ、か?
少しグラスを回して混ぜ吞もうとすると、顔に香りがぶつかる。様々な香りが実体化し、巨大化し、顔にバチバチとぶつかる。それほどまでに香りが広がった。

「う、うまいですね」とオレが言うと、男は少しだけ頷いた。
オレらはバックバーに並んだ瓶を眺め回す。
この不思議な時間に酔いしれていると、男は「お会計を」と言った。
不思議な一杯は男の奢りだった。「それじゃあ」と男は会計を済ませそそくさと店を後にした。

あの日以来あの男とは会っていない。
いや、そもそもあの日は現実に存在したのだろうか?

あの男はウイスキーの神だったのかもしれない。

今でもあの不思議な夜を思い出し、両の手でグラスを温め、水を注ぎ、香りの神との対話のような素敵な時間を過ごすことがある。

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