余命。

家を出る。
この家は僕が生まれた年に建てられたものだ。1987年。築30年くらいが経った木造の平屋である。今では水周りや外壁、そんなものが少しずつ古くなって来ている家だ。
僕は幼少期からここに住み、育った。

既に頭上にある陽光は、今が冬であることを一瞬忘れさせてくれるほど眩くて、今にも深い奈落へ沈みそうな気持ちを少しだけ持ち上げてくれた。

30年と数ヶ月前。
乳飲み子の僕を抱え、当時3歳になる僕の姉を連れ、同級生同士で結婚した28歳の父と母は、この家の完成を見て何を思っていたんだろう。
やはり彼らもこんな風に外からぴかぴかの自宅を見、陽の光に目を細め、時には何かを憂いたり、時には何か希望のようなものを掴んだりしていたのだろうか。

「数週間」

その言葉が昨夜から頭の中を支配していた。
ずっと父を担当してくれている主治医の先生に告げられた、父の余命宣告である。
その時姉は、昨年の9月に生まれたばかりの赤ちゃんの号泣を落ち着かせるために狭い面談室から退出していて、それを聞いたのは僕と母の2人だった。

頭の中には「数週間ってどんくらい?」「2ヶ月だったら8週間か」「え、てか何ヶ月単位でも無いんだ」「今年の夏にはもう…?」「お医者さんだからあえて短く言っているんだろ」等と、ものすごい量の言葉が溢れている。

たった、たった数週間。

僕には、今まで無駄にしてきた(であろう)1日1日があった。
惰眠を貪ったり、読む価値のない下衆なエロ記事を読んだりするような、なんの生産性も何もない日々が。
そんな日をまとめたらどれくらいになるんだろう。「数週間」で足りるだろうか。父の宣告された余命は、それよりも長いのだろうか、短いのだろうか。

1日1日を大切に、なんていうありふれた言葉がいよいよ現実感を帯びて脳裏に迫ってくる。
「その時」は、もしかしたら明日かもしれない、来週かもしれない。そんな、まさに土壇場の今、考えなくてはいけないのは、考えたいのは、「あの時、余命数週間って言われたんだぞー」って笑って父に告げる日を思うことだった。
その為に出来ることがあるなら何でも出来る。自分の身を多少傷つけても、出来る。むしろ、そうしたい。

人はいつか死ぬ。それは分かっているし、いつかは必ず受け入れなくてはいけないことだ。
だけど、父は今では無い。今じゃ無いんだよ、と思う。
30年、養護学校(特別支援学校)の教員として働いた父には、多くの後輩や同僚、そして生徒や保護者がいる。本当に沢山の人が父の事を知っていて、その中の誰かが「林先生!」と急に家に訪ねてくることもよくあった。

家族として、息子として、そんな「林先生」をもっと身近で見ていたい。「ああ、僕の父はほんとに凄いなぁ」とまだまだ思い続けていたい。

だから、そんなに痩せてしまわないでよ。
話をする時にハァハァとキツそうにしないでくれよ。
車椅子になんか乗らず、いつものようにぴんと胸を張って堂々と歩いて見せてよ。
若い頃柔道で鍛えたそのゴツイ身体で僕に寝技を仕掛けても、子どもの頃のように痛がったり泣いたりしないからさ。

午後になっても太陽は翳らず、燦々と地上に光と熱を与えてくれている。寒いけど洗濯物がよく乾く、そんな日だ。
僕や姉や母が流しているこの涙も、父の中にある病気も、どうかその力で一気に吹き飛ばしてはくれないだろうか。
そんな事を、目を真っ赤にしながら思った。

2018.2.27

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