教育の耐えられない軽さ

僕の高校は地元では「地方進学校」などと謳われる「自称進学校」でネットから聞き入れる「進学校」との教育との落差に焦りを感じている人とが多いです。
実際、僕が高校生になって少し物が分かる様になったとき地元の教育に対するあまりにも軽薄な所を感じるようになりました。
例えば本屋です。
僕は本が好きなので色々な本を読みます。色々な本を読んでいると哲学書や文学の解説書などの学術書が欲しくなるんです。幸い父と祖父が蔵書家だったのである程度の欲望は満たされますが、それでもさらに読みたいものや更なる出会いを求めたくなるなります。そうなると本屋はそういう欲望を満たしてくれる場所になるはずですがそういう本は地元の本屋にはないです。あるのは漫画や啓発本、ビジネス書そして我らが偉大なる参考書だけ(何もこうした本を馬鹿にしているわけではないです。僕は漫画も結構読む方だし、僕を本の海に落としたのはビジネス書です)。あっても埃みたいに隅っこに追いやられている。
これが普通のことなんだなとずっと思ってきましたが、県外のちょっととした都会の本屋に行って地元だったら本屋が開けるほどに学術書がたくさん並んでいるのを見て驚いたことがある。そして洋書が店頭に置いてあると言うことはかなり衝撃を受けた。(文学部出身の父が海外文学の研究は当たり前に洋書を使うよといっていたのをそのときふと思い出した)
何もこうした本を置かないことが直接市井の人の教育をおとしめているというわけではないです。殆ど人たちが本に求める情報は娯楽と生活の知恵だけだったりするので…
ただ学問を修めるとなるとなるとこれまた別なはずです。「人生をよりよくする波動」とかいう本でで量子力学のなんたるかが分かるわけがないですよね。家と一番近い本屋でも私立大学が目の前にあるような本屋ですし、ちょっと行けば理系の国立大学があるようなところです。学術書の需要が高いはずなのに隅に追いやられているのはどういうことなんだと感じます。(生協や図書館で事足りているのかもしれませんが….)
ビジネス書、啓発本などの「教養」にあふれている本屋。これが僕の住む地域の本屋の特徴です。

「教養」と「教育」は僕は全く違う様なものだと思います。「学問」という薬を「おくすり飲めたね」ゼリーに入れて誰にとっても栄養となって飲みやすくしたのが「教養」で、ただ水で飲もうとするのが「教育」だと感じます。そのどちらも喉元過ぎれば滋養となるのには変わりはないですが。
教科書が面白くないと思うのはそれが「教育」だからです。youtuberが語る講義が面白いのはそれが「教養」だからです。
数学の教科書には古の人の創造の過程がホルマリンに漬けらたように残っています。それを美しいと感じるかはその人がその人の趣味や感性によりけりです。教養は万人受けを狙いますが、冗長だといって創造の過程を省略することもあります。「数式を使わない物理」といった類いの本は教養と言うわけです。

やはり教養過多な学びはいかがなものかと思います。それは苦学しろと言うわけではなく他人から教えられる面白さだけでなく、自分から散策してみて面白さを見つけるべきだということです。(先生たちが言う「主体的な学び」の評価とはこういうことなのででしょうか)僕も実際力学の序盤が分からなさすぎて悩んでいたときに等加速度運動をしている物体の移動距離がグラフの面積を用いて求まることが分かって変に感動をしてそこから物理が好きになったことがあります。そうしないと本当に自分から好きになったという実感を得られないでしょう。

最初は「教養」から入ってもいつかは「教育」を受けることにはなります。
高校レベルは問題はないですが大学に入って本格的に勉強をするとなったときのために、僕は地元にもっと「教育」に重きを置いた本屋を作って欲しいなとつくづく感じます。


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