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『シン・仮面ライダー』─「オマージュのコラージュ」の愉しみ─

──本拙稿のほぼすべては、3月末の1回の視聴後に4月中旬頃までに書き上げていたものです。ネタバレありの記事である点、ご了承下さい。──

シン・特撮シリーズ?3作品の初回視聴時の私の印象を比較すると

『シン・ゴジラ』48点
『シン・ウルトラマン』90点
『シン・仮面ライダー』75点

という感じでしょうか。『シン・仮面ライダー』では、ウルトラマンとの根本的な違いである“等身大性”が物語展開に色濃く表れていたという印象を持ちました。ですが、それに関して綴るのはやはり1回の視聴のみでは難しく、本稿では『シン・ウルトラマン』への前投稿と同様、本作の“オマージュ性”に焦点化して書いてみたいと思います。オマージュ論は、オマージュ対象となる過去作の記憶も記述の助けになる点が、やはり書きやすいということですね。

『シン・仮面ライダー』では、「仮面ライダー」のみでなく、石ノ森章太郎の生んだ等身大/包含型ヒーロー全般へのオマージュが現れました。“オマージュのコラージュ”といいたくなるほど、(ライダーに限らない)過去作のエッセンスが盛り込まれ糊付けされていて、その量も質も、『シン・ウルトラマン』の場合よりも綿密に作り込まれていたように思います。

『シン・ウルトラマン』も『ウルトラマン』以外へのオマージュも盛り込んでいたのでしたが、『シン・ウルトラマン』にはウルトラシリーズ以外の作品のオマージュはなかった(?あるとしても、現時点で私が気づけていない程度には目立っていない(頭掻))のに対し、

『シン・仮面ライダー』では、『仮面ライダーV3』の他にも

『人造人間キカイダー』
『キカイダー01』
『イナズマン』
『ロボット刑事』

などの、仮面ライダーシリーズ以外の石ノ森作品が、これらを知っている人なら誰でも初視聴時に気づけるわかりやすさではっきりと盛り込まれ、オマージュ世界の広さ深さが明らかに増していました。

それらのうち最も重要なものは、やはり「ハチオーグが倒れるシーン」ではないかと私は考えます。

──ヒロミ=ハチオーグがルリ子の親友であることを重んじた 本郷>ライダー(注) はあえてハチオーグにとどめを刺さなかった、が、その直後、ハチオーグは、人間の刺客である滝の放ったサソリオーグの毒であっけなくやられ、最期に「ライダーに殺されたかった」といって最期を迎える。──

注:私の用語では、仮面ライダー等の等身大ヒーローを「包含型」、ウルトラセブン(レオ、80、メビウス)等を「同一型」と呼び、区別しています。後者を「ダン=セブン」等と表記するのに対し、本郷猛とライダーは不等号「>」で結んでいます。以下の ジロー>キカイダー も同様です。

というこのシーンは、

──ハカイダーの存在の特殊性(光明寺の脳の組み込み)ゆえにジロー>キカイダーはハカイダーを倒せない、そのためにハカイダーは ジロー>キカイダー によってではなく“ハカイダーキラー”に特化された白骨ムササビの強牙によってあっけなく倒される、最期にジローに抱き上げられ「お前にやられたかったぜ」と告げる。──

という『人造人間キカイダー』最終話における流れとまったくパラレルです。改めて説明するのもむずがゆいほど、キカイダー/ハカイダーを知る者なら誰でも気づく形で明白になぞっていました。それも、今見たように、局所的に「最期の台詞だけ借りてきた」などではなく、一連の設定─流れをセットにして沿わせてきている。すなわち、単なる場面の演出・展開や登場人物の行動のみならず、それらがそうなる根拠や奥の心理のようなものまでも、細やかに並行させているのがわかります。

「ハカイダーとジローの関係に当たる何かを折り込み、ハカイダーの最期の台詞をどこかでどれかのオーグに言わせる」という着想が生まれ、それをどこでどう盛り込むか…という作劇過程だったのではないか、とも想像できます。『人造人間キカイダー』における“ハカイダーの悲劇”を『シン・仮面ライダー』へオマージュとして埋め込もうとした。それに最適だったのがサソリオーグの毒とルリ子とヒロミの関係という『シン・仮面ライダー』側のフィクションだったのでしょう。

あるいは、そもそも“ハカイダーの悲劇”へのオマージュを果たすということの方が先に構想され、その実装のために、ルリ子─ヒロミの関係やサソリオーグの毒を銃に仕込むという展開が設けられたのではないかとさえ思えてきます。

どちらであってもいいですが、ともかく、本郷とルリ子と(野原)ひろみ(とさそり男)、ハカイダーとキカイダー(と光明寺と白骨ムササビ)などのオマージュを相互リンクさせるという所に行き着いたのは、つねにオマージュたることを主に意識していたからこそなのでしょう。

他にも、ハカイダー/ハチオーグの例ほどの並行性はないながらも、いくつか“単発”のオマージュが散りばめられていましたね。

一文字ライダーの怪力の描写は、これ自体がV3の「力と技の風車」の「力」の面を2号が担うということへのオマージュであると同時に、この後に何らかV3へのオマージュが出てくる、ということの布石にもなっているわけです。

緑川イチローの「玉座」(の背の蝶)はもちろんショッカー首領の鷲へのオマージュですが、彼の蝶オーグのマスクと風車2枚のベルトと白いマフラーがV3を表すことは明らかですね。自ら「仮面ライダー」とまで名乗る。あからさまです。ところが「3号」ではなく「0号」。この「イチローが0号に変身」というのがキカイダー01を表すことも明らかです。ダブルオーは?いやそれは原作だけだったでしょ、という通の会話も聞こえてきそうです。

ラスボスを蝶にしたのも上手い。確かに『仮面ライダー』のショッカーの怪人に蝶の怪人はいなかった?し、イナズマンへの弱いオマージュにもなっています。「弱い」といったのは、イチロー=蝶オーグの技に稲妻=電光的な見映えのものを持ってくるぐらいもしてもよかったのに、と思うからです。

腕の線が、2号は1本、新1号は2本という反転について。誰しも少し「おかしい」「逆じゃないか」というふうには思ったものでしょうが、どうですか。私自身について言うと、当時、意外にも?子ども心に何だか「登場順に、線が無し─1本─2本と増えてきた」ということで納得していたような感覚がありました。ともかく、これが旧作を語る際の一つのトピックであることは間違いないわけで、今回は、ラストで一文字ライダーの腕が2本線になることにしっかりとした理由があるようになっています。本郷が死ぬも、仮面へのVRによる一文字との融合を果たした、すなわち、個体の身体としては一人のライダーでありながら“中身”は二人である、ということの表現になっている。ここも、「本郷の死によって物語世界内の流れに劇的展開を生もうとした」のではなく、むしろ、「腕の線が2本のライダーを、確固たる根拠を携える形で登場させたい」ということの目的を果たすために、本郷には死をもたらしたのではないか、とさえ私は読んでしまいます。そうだとして、そういうことを肯定的に捉えたいとも思うのです。

また、上述のオマージュのうちその複数において、物語の背景・理由・心理・経緯において、それぞれの原典よりもさらに精密・丹念に仕上げようとしているのもわかります。“原典”のオマージュ対象箇所においてはそこまで緻密な背景や理由の描写や伏線などがなかった/不足していたと思える部分を、くどいくらいに、できる限り補完しようとしている。『シン・ウルトラマン』のゾーフィ〜ゼットンの展開等とも共通するのでしょうが、原典視聴だけだと生じてくる“なぜ”に、代わりに十分な答えを与えようとしているのではないか、ということです。

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