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もう疲れたから偏見だけでさよならしましょうよ

インスタは「ピッカピカしてる!! 眩しい!! 全員幸せそうで!! ああ!! 妬み僻み嫉み!! それが大爆発!!」ってよく聞くけど、おれはあんまりそう思わない。何時間見てもそういう感情は湧いてこない。そういう人をフォローしていないからか。いや、そもそも友達が少なすぎるからか。『チーム友達』を歌うには程遠いおれの生活ないし人間関係は紀元前の地平線みたい。おれはどっちかっていうとインスタより現在あの社長さん(今は会長だかなんだか知らんがとにかく金持ち)の登場でゾンビが溢れてもうどうしようもないTwitter(現・X)のほうが見ていて「どろどろしてる!! 暗い!! 全員不幸せそうで!! ああ!! 金酒セックス!! それで万歳!!」って感じになってツラい。最低だ。Twitterにはそのとき衝動的に吐かれた言葉と、皮膚を抉り裂いて流れ出た血と、誰かの底から見えた不憫な精子とかが「投稿時間」剥き出しで広がり流れている。こいつらは「リアルタイム」に生きているのがよくわかる。それがおれには余計にツラい。おれが「黄砂の影響で目が痒くておまけに花粉のダブルパンチで、ティッシュ両手に悶えている」ときに「彼」はどこからかやってきた「不幸」を授かり悶えて素早く逃避を図るため短小な刃物を持ち「リアルタイム」でTwitter(現・X)に潜っていることがよくわかる。それに比べてインスタの投稿は「準備」と「構成」の上で成立しているから、「リアルタイム」感はない。例えば優雅なビーチにいる「彼」は甘い果汁たっぷりのお酒を片手にニッコリ笑顔でサングラスをしている。「彼」は空に漂う鮮やかな太陽とツーショット。そんな投稿。これはきっともう「彼」にとっては「過去」の出来事で精一杯の「準備」でようやく「投稿」にまで辿り着いた結晶だ。いわゆるインスタの投稿は作品なのである。この「リアルタイム」じゃない感じに絶妙な「距離」が誕生していて、インスタでは投稿が立派な日常の「記録」になっている。それにインスタは500字で、Twitter(現・X)は140字だ。文字数の存在は大きい。さて普段は一切インスタをせずにTwitter(現・X)ばっかりやっている「彼」のほうは裸でベッドに潜る「彼女」の横で心臓を痛めながらゴム装着の準備をしている。ここは「彼女」の部屋で本棚には中島らもの文庫本が並んでいる。「彼」はその本棚を一瞬だけ見てすぐに視線を落として忘れる。人の読む本なんかには興味がない。「彼」を待つ「彼女」は残業明けでその疲労のせいでもう目を瞑ればすぐに意識が落ちてしまいそうだった。そんな不動産勤務の「彼女」の隣で身体に流れる血をまた一点に集める「彼」はといえば穀潰し(SNSのプロフィール)でしかなく、しかし実際のところはその肩書きは偽りで真面目に都内で靴の営業をしている。実績もそれなりにある。「彼」は「彼女」に本当の自分を明かしていない。睡眠は健康的に確保しておりコソコソと隙間時間にTwitter(現・X)を動かし偽りの今を投稿する。「彼」はTwitterで酒とタバコと文学(太宰治だけ)というクズの三代要素を全面に押しながら、自慰行為とは名ばかりのセックスを堪能する。嘘だらけの男。薄っぺらい人間にインスタは動かせない。そんな「彼」のTwitterの「フォロワー」(フリーター)は虚しく寂しい孤独な夜を味わっている。しかし「フォロワー」はそんな嫌な現実をかき消すため大音量でK-POPを聴きながら一見健康的な生活をTwitterに投稿する。例えば『マッチングアプリで可愛い人にメッセージ送った』とか。『豚肉が安かった!』とか。あんまり健康的じゃないか。まあそんな投稿をする。その後「フォロワー」は寂しく近所の家系ラーメンを一人で訪れ味濃いめを豪快に啜るのであった。一方インスタに潜る例のニッコリ笑顔の「彼」が愛する「彼女」は今日も豊かな友達に恵まれ豪華なディナーを東京銀座のビル(最上階ではないが)で楽しんでいる。目の前に置かれた皿の上で輝くどこかの国の(それはきっとヨーロッパだ)料理をスマホ(もちろん最新のiPhone)で写真を撮れば7人しか属さない「親しい友達」の中でストーリーを投稿する。「親しい友達」には入っていない彼ら彼女らは、「彼女」はもう1ヶ月以上SNSを動かしていないと思っている。彼ら彼女らにとっての「彼女」の最後の投稿は1ヶ月前。夕暮れ時の浜辺。沈んでいく太陽の前で、その光景に見惚れる小さな子供の背中を写した写真である。少年はニューヨーク・メッツのキャップをかぶっている。それは2枚目の正面から撮った少年の写真でわかる。投稿の本文は『遠い国の少年』とだけある。いいねは74件。スパムも含む。少年はアメリカからやってきたらしい。「彼女」の「親しい友達」に「彼」は入っていない。「彼」もまた「親しい友達」に「彼女」を入れていない。二人の合言葉は「距離」なのであった。「距離」を意識することで恋の敵である「飽き」を遠ざけているのであった。まあ理想的な恋愛の建設方法だ。「彼」と「彼女」で共通していること。それはインスタに公開する投稿の、本当の時間というものが常に不明であること、たとえストーリーであっても即座にではなくいつも段階を踏んで公開される。犬の糞を踏んでショックを受けても、その投稿は明後日にするなんてこともよくある。良くも悪くも「彼」と「彼女」の生活はSNSを通すと曇って見えるのだ。一方Twitter(現・X)に依存する「彼」の「彼女」はX(旧・Twitter)のタイムラインにうんざりしている。「彼」のポストはまず全部おもしろくない。写真は下手だし、観る映画は古いものばっかりだし、漫画は読まないし、M-1決勝戦の感想はイタイし、頓珍漢な小説の感想を投稿するだけで、まあ本当につまらない。くだらない。正直「彼」以外の人達もXではなんだかネガティヴで超つまんない。貧乏、酒、無職、性欲、政治、そんなのばっかり。おまけにその全部に中身がない。それにどこかの社長さんがTwitterを買って、トレードマークの青い鳥を葬った。代わりにダッサイ黒のバッテンにしちゃったから、もうホーム画面を覗くたびにそのアイコンを見つけて鳥肌。ダッサイなあって思っちゃうし。でも新しくなったものを古いまま呼ぶのは世間に遅れているとわざわざ自己紹介しているようでさらにダサいからもうTwitterとは絶対に呼ばない。っていうか呼べない。だって恥ずかしいもん。普通に。今はリンスじゃなくてコンディショナーって言うし。流行りについていくって、ずっと前にそう決めたんだから。「彼女」はもうずっとあの日からTwitterとは呼ばずにXと呼び続けている。そしてXだけを続ける「彼女」はもう全部を世界に晒すと決めている。瞬間の個人的な感情を受け入れてくれない世界なら、そんなのもういる意味がないから。Xでも認められなくなったら、消えよう。インスタは写真を撮るのがめんどうでやっていない。気軽に投稿できるXに依存。でもそうした結果「彼」みたいにつまらないポストばっかりしてたら、嫌だなあ。っていうややこしいことが起きていると思うから、おれはもうnoteでたまに詩人ぶった文章を「つぶやき」機能から投稿して。たまに鬱憤を晴らすため「記事」に長文を書いて残す。それぐらいがちょうどいいと思っている。おれはどうせインスタをうまく使えるぐらい親しい友達もいないし。Twitterでもウケるクズと不幸と酒と金と欲望のフランケンシュタインにはなれないし。バレない嘘を書くのもめんどうになってきたし、なんかやってても寂しいし。心地よいBlueskyという居場所も見つけたけど、欲しい機能が足りていないところで不便だ。しかしおれはどこまでSNSという本来必要ではないところに居場所を探してしまうのだろうか。わからないけど、おれはもうとにかくインターネットの世界に疲れてきてるんだよ。それだけは確かで。おれはインターネットの外にある社会で働いて稼いで生きていくことは可能かしら? と毎日不安だ。Twitterもインスタも、もう全部のSNSは帰ってほしい。帰ってくれないか。

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