[読書メモ]時間と自由意志(筑摩書房)

この世界の自然法則により、今現在の手持ちのデータで(それは認識論的に把握できなくても存在論的なデータで)未来が規定されるのだとしたら、未来だけでなく過去も規定できるはずだ。今この座標にある物体Aが10秒後どの座標に存在するのかが措定できるのであれば、10秒前の座標も同様に措定可能であろう。つまりこのような観点からすると時間軸は対称性を持っている。

自然法則があらゆる実在のあり方を規定していくという考え方は、決定論的世界観を濃厚に描き出す。手持ちのデータで未来も過去も措定できるという事は、この宇宙の歴史全体を決定できることになり、運命は地球が存在する以前に決定されていることになる。世界誕生の瞬間にすべてが規定されるのだとしたら僕らに「自由」はないのかもしれない。

しかし自由とは何か、を突き詰めていくと、そう単純なテーゼでかあることが極めて困難である。自由意志に基づいて決断した、という時の、その決断点、つまり歴史の分岐点を存在論的に特定でないがゆえに、自由とは極めて認識論的な在り方をしているように思われる。

『歴史の分岐という考え方は、じつは大変に謎めいている。それが分岐であるからには、分岐後のどの未来から見ても、分岐点までの歴史は同一のはずだ。しかし同一の歴史から、いったい何を根拠にしてその後の歴史が選ばれるのか。無根拠な歴史の選択は、選択というより偶然に過ぎない。』(青山拓央.時間と自由意志p33)

自由と偶然はそれほど異質なものではない。自由を高貴なものとして、偶然を「単なる・・・」としてとらえるのは人の認識に過ぎないが、その本質に大きな差異は無いように思える。異論はあるかもしれない。しかし、運命の分かれ道、というものが存在するのだろうか。あの時の決断とは言うが、どの時点での決断なのだろうか。そもそもそんな決断が存在したのだろうか。分かれ道という概念は認識論的なものであり、それは一つの可能性として頭の中に描き出したものに過ぎないのではないだろうか。

『歴史は可能性として「分岐する」のであり、実在として「分裂する」のではない』(青山拓央.時間と自由意志p42)
『われわれは、「偶然chance」あるいは「運luck」といった語に、ある先入観をもっている。「たんなる」といった修飾を付けずとも、それらを価値のない「たんなる」ものとして見てしまうという先入観を』(青山拓央.時間と自由意志p108)
『偶然と言うものが仮に存在するなら、自由意志はその一種であることによって、ようやく本当に存在することができる。偶然の一種であることは、自由意志にとって存在への限られた道なのである』(青山拓央.時間と自由意志p109)
『(サイコロやくじ引きなどの)人工的偶然生成機は、それによる決定が人為的決定ではないことを人々に直観させるための道具なのであり、その目的のための特異な設計がなされていることを忘れてはならない』(青山拓央.時間と自由意志p110)

こうした偶然生成機における偶然を、偶然の典型例と考えてはならない。

『自由意志と偶然は、通名をもたない何か同じもの、二つの異なった現れでありうる』(青山拓央.時間と自由意志p113)

時間分岐、すなわち諸可能性から一つの現実が生じることをその原因のなさ、理由のなさ、無根拠差のもとでとらえたとき、その生成はたんなる偶然であるが、そこには何かを決める主体も、主体に操られる客体も存在しない。他方で、同様の事実を、自ら生み出す力のもとでとらえたとき、偶然は自由意志として捉えられている。

『未来の諸可能性の一つを自由に選び取る主体は存在せず、未来の諸可能性の一つを不自由に押し付けられる客体も存在しない(青山拓央.時間と自由意志p157)』

自由でも不自由でも無い世界、無自由な世界。

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