(メモ)『知っていること』と『調べること』について

『知っていること』と『調べること』。情報化社会はこの二つの関係をどう変革していくだろうか?何かを調べるために、かつては膨大な時間と労力を必要とした。例えば図書館に行って、大量の資料の中から、目的とすべく情報を探したりと。

しかし、今やスマートフォン端末のブラウザを立ち上げ、検索エンジンに調べたいキーワードを入力するだけで、膨大な数の情報を瞬時に集めることができる。

『知っていること』と『調べること』の隙間はかつてに比べてかなり小さくなったと言えるだろう。情報化社会から、超情報化社会へ移行するにつれ、客観的知識はますます外部に依存することになる。ポパーの言葉を借りれば情報化社会がもたらすのは知識を世界3上に押しやり、知識とはもはやその引き出しかた、つまり『調べること』という意味を包摂していくのだろう。これは学びのあり方が根底から変化していく様を予測する。

『臨床医学に関する知識がある』というのと、『臨床医学に関する知識を調べる』というのは、かなり異質なスキルであるが、どちらが重要なスキルだろうか。かつては物知り、博学が価値のあるものとされた。しかし、「知識がある」、と『知識を調べる』の差異が埋まりつつある情報化社会はがもたらすものを考えてみたい。

確かに知識ゼロというのは効率が悪い。しかし、ある程度の知的バックグラウンドさえあれば、その領域における権威とも互角に渡り合えるのが情報化社会だとは言えまいか?実際、そうしてきた僕はこの情報化社会というものについて、ある種の恐ろしささえ感じる。

だいたい全ての知識を知り尽くすなんてことは不可能だ。多かれ少なかれ、人は知識を外部に依存している。だからこそ、今後ますます重要になってくるのは情報の引き出し方という問題である。



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