主体的に学ぶとはどういうことか

 現代英語において、文は必ず能動態(active voice)受動態(passive voice)のいずれかに属すると言われています。もちろん日本語でも、能動態、受動態という区別は当たり前のように使われていますし、僕たちはそれ以外には考えられない言語世界観を生きています。

 しかし、この「能動/受動」という区分は実に曖昧な線引きであることは少し考えれば容易に分かります。例えば、道を歩いているとき、僕たちは能動的に歩いていると、そう思うことでしょう。しかし、一挙手一党即すべてを意識しているわけではありません。大小さまざまな関節や筋肉の動きについて、その全てを能動的に意志しながら歩くことは不可能です。

 あるいは、誰かを好きになる、誰かを尊敬する、何かに感動する、というような状況を考えてみてください。「この人を好きになるぞっ」、と言って人を好きになるわけじゃありませんし、「好きになれっ」と言われても嫌いなものは嫌いです。このことは「尊敬する」、「感動する」という行為にも当てはまるでしょう。つまり、能動や受動に収まりきらない行為は確かに存在するのです。

 能動態/受動態という対立は、かつては能動態/中動態という対立でした【1】。中動態というと、能動と受動の間、というイメージがありますけど、そうではありません。能動/受動というのは行為の方向性を見ている言語世界観です。「するか/されるか」という感じです。

 しかし能動/中動という言語世界観は行為の方向性を見ているわけではありません。この場合の能動とは、動詞は主語から出発して、主語の外で完遂する過程を指し示しています。対立する中動では、動詞が主語の座となるような過程を示しているのです【2】。

 能動/受動で言えば、「壊す」「あげる」「好きになる」「尊敬する」「感動する」はいずれも能動態かもしれません。しかし、能動/中動でいうと「壊す」「あげる」は主語の外で完遂する行為ですので能動態、「好きになる」「尊敬する」「感動する」は主語の過程の内部にありますから中動態ということになります。

 こう考えても良いでしょう。現代の言語表現では「尊敬する」とか「感動する」と言った動詞は、「尊敬させられた」「感動させられた」と受動態表現の形式で置き換えても文意が大きく変化しません。中動態には自動詞表現と受動態表現の双方の意味が含まれているのです。

 さて、学習においては「主体性が大事だ」なんて言われることがあります。アクティブ・ラーニングという言葉を聞いたことがある人も多いでしょう。アクティブラーニングとは、学習者である生徒が受動的となってしまう授業を行うのではなく、能動的に学ぶことができるような授業を行う学習方法のことです。確かに学習には能動性が大事だという考え方に違和感を抱く人は少ないでしょう。

 ここで「勉強する」という行為を「能動/受動」ではなく、「能動/中動」の対立で眺めてみたらどうなるでしょうか。教育は「義務養育」と呼ばれるように、何か強制的に受けなくてはいけない受動的な側面もありますが、他方で、教育を受ける権利、というように能動性を主張することも多いはずです。つまり学ぶという行為は本来「能動」「受動」にはカテゴライズされない振る舞いなのです。そして「学ぶ」ことは、主語の過程の内部にありますから能動/中動の言語世界観で言えば中動態なのだと思います。

 誰かから「勉強しろ」と何度いわれても、積極的に勉強をするようになるわけじゃない。他方で、誰に言われるでもなく無我夢中で勉強してしまう時もある。能動的な学びと言ったとき、主体性や学習者の意志の強さを問うのではなく、学びを欲することをに関心を向ける必要があるのではないでしょうか。主体的に学ぶとは意志の問題ではなく、学びを欲することに対する応答(response)に近い、そんな気がしています。

【参考文献】
【1】國分功一郎:中動態の世界―責任と意志の考古学
【2】エミール バンヴェニスト:一般言語学の諸問題

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青島周一

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