医学を哲学で語ることの是非について

 「医学を哲学で語るな」という批判をいただいたことがあります。僕がブログで書いた以下の記事に対するご意見でした。

 この記事の内容に関する批判について議論するつもりはありません。そういうことを語るな、と言われればそれまででしょう。そもそも、僕は薬についての知識はあれど、医学の専門家たる医師ではありませんし、ましてや哲学の専門家でもありません。そんな僕が、医学を哲学で語るほどの何かを持ち合わせているように思えませんし、学問としての哲学で医学を精細に考察できるほどの思慮深さを備えていません。

 ただ、医学を哲学で語ることの是非ついて、僕なりに思うこともあるので少しまとめてみたいと思います。むろん、少しばかり人文書を読んだ程度の浅知恵で、哲学まがいのことを語る愚かさも承知しています。ここでいう哲学とは、やや広い意味での哲学であって、思考の理路、判断の原理のようなものと捉えていただけると嬉しいです。

【臨床で問われるのは客観的事実だけではない】
 哲学の定義をやや広義に緩めるのであれば、やはり「医学を(厳密な意味での)哲学で語るな」という指摘は正しいのでしょうか? 僕が定義した哲学と、厳密な意味での哲学が異なるのなら、「厳密な意味での哲学を持ち出して医学を語るな」と切り返されそうです。

 ただ、厳密であろうと、そうでなかろうと、医学を哲学で語ることはすでに学問として存在します。医学を基礎医学と臨床医学を含めたものとするのであれば、「医療倫理学」という学問分野も医学が取り扱うべきテーマでしょう。

 倫理学は「道徳哲学」とも呼ばれ、哲学における価値論の一分野です。そして倫理学は、なぜ道徳的であるべきかを問うメタ倫理学、道徳的に正しい行為とはどうあるべきかを問う規範倫理学、実際の状況で何をすべきかを問う応用倫理学の3分野に分けることができます。そして、医療倫理学は応用倫理学に分類される倫理学であり、そして哲学なのです。

 “医学は厳密科学であり、価値の是非という極めて主観的な議論で語るべきではない” という批判はそれなりに説得力があります。むろん医学が厳密科学であるということに対して異論はありません。とはいえ、それは医学の一部であって全てではない。とりわけ重要なのは、“「である」という事実命題から、「べき」という当為命題を導出することはできない” ということです。

 当為とは「あるべきこと」「なすべきこと」を意味する言葉ですが、観察や資料による客観的事実の把握や因果関係の推察だけからは、いかなる当為も正当化することはできません。「あるべきこと」「なすべきこと」は、たとえ客観的な事実に基づいていたとしても、人それぞれの関心に応じて多様な解釈可能性を有するからです。その解釈可能性の幅をどのように規定していくのか、集団や社会において、どこまでが許容され、どこまでが許容されないのかを論理的に考えていく営みこそが倫理学(あるいは哲学)なのです。

 臨床医学において、科学的に示される根拠とは、集団を対象にした疫学データです。しかし、公衆衛生的な視点から見た医学的事実が、個人レベルの意思決定にそのまま妥当するかと問えば、そこには議論の余地があります。肉類の多い食習慣は健康に悪いという疫学データがあったとしても、それを個人レベルでどう受け入れるかは多様な価値観の中で考えていかねばなりません。「価値を問う」こと、それはやはり哲学の範疇でしょう。

【”ほとんど良い”と”絶対に良い”の間を考えること】
 僕は物事を考えるとき、何か抜け落ちている関心がないだろうか? この考え方を支える根拠はあるのだろうか? と問うようにしています。どんなに権威者といわれるような人と同じ意見だったとしても、それがカルトっぽくなっていないだろうか? もしそうであるのなら、少し身を引き離した方が良いと思っています。

 世の中的に「ほとんど良いこと」ってたくさんあります。例えば、不適切処方や多剤併用が問題視される中で、「薬は減らしたほうが良い」「こんな薬は長く飲むべきではない」という話はよく聞きます。薬がたくさん処方されれば、副作用リスクも増えるし、服薬の負担も増える、そのうえコストもかかる。だから、こうした理由で薬を減らした方が良いというのは、ほとんど良いと思います。

 でも絶対じゃない。この「ほとんど良い」と「絶対」の間がものすごく気になるのです。これには僕が苦手な常識的価値観の押しつけに対する反動的情動が影響しているのだと思います。僕の中にはいろんな考えがあって、それは時に世の中の大多数意見と異なるときがあります。でも大多数の意見を鵜呑みにすることに妙な抵抗を覚えてしまう。素直に従っておけばよいものをそうできない自分がいる。世の中に何か迷惑のようなものをかけていない限りにおいては、自分の考えを大事にしたいときもあって、常識を盾にいろいろ否定されると、ちょっと苦しい。

 だから、「ほとんど良い」という常識的な価値観の中に、何か見落としている関心はないだろうか?と考えたくなる。その関心について、多面的な視点と理路を浮かび上がらせてくれるのが、僕にとっては哲学だったのかもしれません。

 「ほとんど良い」と「絶対」の間を考えること、それは思考を停止させずに物事の前提を疑うことにに近い。常識的な態度をうのみにせず一旦保留しながら、「そもそも~」と問い直してみる。権威といわれるような人の力強い意見だろうと、「ちょっと待って」と思考を止めない。こうした思考の組み立て、つまり前提を問うという姿勢こそが科学的だと感じますし、それは同時に哲学的であると思っています。

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