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第104回 高松方の煩悶

治安元(1021)年。『更級日記』によると、前年に少女であった菅原孝標’(たかすえ)女が一家で帰京し、この年伯母に当たる人から『源氏物語』50余帖を入手して「后の位も何にかせむ」と大喜びし毎日読み耽ったという記述があります。もう「宇治十帖」も完結して流布していたのでしょうね。

さて、5月に左大臣顕光が亡くなったので高官の異動がありました。
7月25日、右大臣公季(道長の叔父:65歳)が太政大臣に、内大臣頼通(30歳)が左大臣に、右大臣実資(65歳)はそのまま、権大納言教通(26歳)が上位3人を抜いて内大臣に、権中納言であった高松方の頼宗(29歳)、能信(27歳)が中納言隆家(43歳)を抜いて権大納言に昇進しました。

頼宗・能信は昇進しましたが、やはり鷹司方(倫子の子)と差をずっとつけられています。年下の教通の下に立つ訳ですから。
頼宗は温厚な性格で、鷹司方ともうまくやり右大臣にまで昇進していましたが、能信は反抗的で頼通・教通と対立し、何とこれから亡くなるまで44年間も権大納言に留め置かれています。更に反主流派への道を歩んでいきます。

倫子は二男四女、明子は四男二女を産み、対抗しています。
『源氏物語』の雲井の雁と、藤典侍もどちらも子を多く産み、列挙しようと思いましたが、何と複数の説があるので割愛します。どれも雲居の雁がたくさん産んで、太郎君を産んでいるのが共通です。また藤典侍は美貌の六の君を産んで匂宮の妻となっていきます。

明子の四番目の男子長家(この時17歳。定家の祖)はどういう経緯か、倫子の養子となっています。男の子二人で少ないから三対三にしようとでもしたのでしょうか?

さて、3年後ですが、明子の産んだ二番目の姫、六の君尊子は18歳(19歳説あり:嬉子より下にわざとしたか?)で、17歳の源師房(具平親王の息子、頼朝の正妻隆姫の弟)と婚礼します。
能信はまた激怒します。「鷹司方の四人の姫はすべて天皇か東宮の后妃。こちらの寛子は天皇即位の見込みのない小一条院の妃という捨て駒。そして今度はただ人との結婚か!」
しかし周囲はこの方が幸せだとなだめます。実際、師房は右大臣まで昇進し、尊子は四男三女を産み、特に俊房と顕房の兄弟は英明と尊敬されました。顕房の娘賢子は白河天皇の中宮となって堀河天皇を産み、その皇統は現在に繋がっています。また子孫は村上源氏として、土御門通親や北畠、赤松、道元、久我美子さんなどが活躍しています。女子も麗子が頼通の後継者師実の妻となって師通を産み、摂関家の後継者となります。

能信の方はやはり反主流派となって、後三条天皇が東宮の時も身の危険があるのを体を張って庇い、やがて摂関家の凋落を招くのも皮肉な事でした。

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