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第25回 香子、越前へ(3)

だいぶ前ですが、私は家内と車で武生を目指した事がありました。拙著『源氏物語誕生』の取材もかねて。
塩津港は穏やかな入江が美しい所でした。塩津神社でお参りして(恐らく香子一行も旅の安全を祈った?)塩津山を越えて、角鹿(つぬが、今の敦賀)では気比神社(敦賀気比って有名な高校ありますね)でまたお参りして、木の目峠(海外伝いの別ルートかも知れませんが)を取って国府(武生)に京から三泊程度で行ったものと思われます。

ところで越前での生活は恐らく退屈だったでしょう。得意の琴を弾いたり、物語の構想を練ったり。異母妹や継母とは別の部屋だったでしょうし、特に日記などにも回想が出て来ないのであまり交流はなかったかな?
越前が紙の産地であったのくらいは香子は良かったと思ったでしょう。存分に書く事ができます。

肥前に行った親友の従姉(物語では小夜姫としました)との手紙のやり取りが楽しみでした。
香子「北へゆく雁のつばさにことづてよ 雲の上がき かき絶えずして」
 (北へ向かう雁のつばさにことづけて下さい。私あての手紙の上書きを絶
  やすことなく)
返し・小夜姫「行きめぐり誰も都にかへる山 いつはたと聞くほどのはるけさ」(遠く離れた国々をめぐり歩いても、やがては誰もが都に帰るのでしょうが、『かへる山』『いつはた』と言う地名を聞くにつけてもはるか先の事のように思えてしまいます」(『紫式部集』より)

京での事も入ってきました。道隆夫人の高階貴子(百人一首では「儀同三司の母が10月に亡くなり、その危篤の時に、息子伊周がそっと見舞いに来たもののすぐに注進が走ってばれ、罪人が勝手な行動をしたというので本当に大宰府に流されてしまったという事。
中宮定子が宮中にいないので、一条天皇の所に二人の女御、大納言公季の娘義子姫と、左大臣顕光の娘元子姫が入内し、元子姫が割と寵愛されている事。

そして12月に、5月の騒動の時懐妊していた事が分かった中宮定子は皇女を安産した事など。
こうして長徳2(996)年は暮れていきました。

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