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第17回 清盛生まれる。同時に運命の受胎。

永久6(元永と改元:1118)年正月18日、平忠盛の妻となっていた清子(拙著『清盛の時代』で清子としました)は男児を産みました。後の清盛です。母子共に無事と聞いて母親の祇園の女御は安堵した事でしょう。早速、白河法皇に奏上しましたが、法皇は「ふむ」と言ったきりでした。璋子を失う悲しみと気まぐれで清子に手を出したのです。そんな落胤は山ほどいました。
法皇にとっては掌中の珠ーそれこそ璋子の行く末だけが一大事だったのです。

同じ正月26日、璋子を中宮とする立后の儀式が行われました。璋子に批判的な関白忠実は「大納言の娘が后になるのは三条天皇の媙子以来だ」などと陰口を言いました。璋子の実父・公実は55歳で権大納言で亡くなっていたからです。しかしもう少し長生きすれば大臣も可能だったでしょう。三条に住んでいた公実の子孫は三条家、西園寺家、徳大寺家と繁栄しています。
だいたい璋子は、白河法皇の養女なのですから皇女格でした。

ところで男の私が言うのも何ですが、昔は血を穢れとしていました。ですから女性の月の物があるという時は宮中を退下しなければいけません。前述しましたが、著名な女性評論家自身がテレビで「女は穢れておりますから」と笑いながら言われたのは奇異な感じがしました。現在でも土俵は「女人禁制」となっており、いまだ女人禁制の所はあると言われています。

それで6月22日、璋子は宿下がりに、自分の里邸の三条西殿ではなく、法皇が待っている正親町第に向かいました。何たる大胆な行動!こうやって後世に暴露されるのを分かっていなかったのでしょうか?
法皇と璋子は久しぶりに8日間の蜜月の時を過ごしました。このランデブーの間、法皇と璋子は楽しかったでしょうが、若い鳥羽天皇がお気の毒です。
そして7月1日、璋子は鳥羽天皇がいる土御門内裏に還啓しました。
この頃は周囲の説得もあって璋子は鳥羽天皇を受け入れていたでしょうか?

そして運命の9月20日から25日まで、また璋子は法皇と同殿します。その時に崇徳上皇を受胎されたのではないかと、学者たちは推測しています。
よく登場する角田文衛博士は、璋子の宮中退出記録から月事を表にし、顕仁親王(崇徳上皇)が誕生した時から逆算してやはりこの時に受胎されたと結論しました。
後に、鳥羽法皇が顕仁親王を「叔父子」と公言して憚らなかった不幸の胤がここにあります。表向きは我が子でも、実は祖父の子だから叔父。それで「叔父子」という訳です。また鳥羽法皇が確信されたのは9月には璋子との交渉がなかったのではないかという学者もいます。「保元の乱」への序曲は始まっていたのでした。(続く)



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