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第20回 崇徳天皇、5歳で即位

保安2(1121)年正月、忠実(44歳)は正式に関白を辞任し、宇治の別荘に引き籠ります。傍らには生後1年にならぬ菖蒲君(後の頼長)を置いて慰めとしていました。
3月に長男忠通(25歳)が関白に任じられました。
その年は大物の死が相次ぎました。
4月2日、平正盛(年齢不詳)。摂関家に仕えた河内源氏から、白河法皇に接近する事によって桓武平氏の勢力を伸ばしました。次代の忠盛(26歳)に期待です。
同じ4月16日、璋子の実母、光子(曽祖父は何と紫式部の夫・宣孝。宣孝の男子の子孫)が62歳で亡くなりました。危なっかしい璋子の事を本当に心配し、孫に当たる顕仁親王の行く末も案じていたでしょう。

11月12日、失意の左大臣源俊房が87歳で亡くなりました。8年前、息子の仁寛が鳥羽天皇暗殺計画の首謀者として伊豆に流されそこで投身自殺をしたのでした。気丈に俊房は仕えていましたがとうとう身罷ったのでした。
しかし娘方子が北家魚名流の長実との間に産んだ得子(5歳)がやがて鳥羽上皇の寵愛を得、近衛天皇の母となり美福門院として勢力を振るうのでした。
この年、璋子は懐妊し、翌年皇女を産んでいます。実父はこの頃は鳥羽天皇でしょうか?璋子は11年間で5皇子2皇女を産む、壮健な女性でした。

そして保安4(1123)年正月3日、数え5歳になった顕仁親王の著袴(袴着:現代の七五三の様なもの)を終えると、白河法皇(71歳)は21歳の鳥羽天皇に譲位を迫り、正月28日、顕仁親王は皇太子そして即日践祚します。
鳥羽天皇自身も5歳で即位したからというのが法皇の言い分だったでしょうが、その時は堀河天皇が29歳で崩御したのでやむなく5歳で即位した訳です。今度は鳥羽天皇が若く健康なのに強制的に譲位させた訳です。法皇の独裁振りが分かります。
忠通が摂政に任じられました。忠通は前年生まれた娘(聖子)を早くも将来の后にと考えます。(その通りにしました)

2月19日に即位の大典が行われました。崇徳天皇です。天皇は5歳なので、摂政の忠通が抱いて高御座(たかみくら)に昇りました。母璋子も一緒に昇ったという記録があります。
白河法皇はもちろん目を細めて眺めたでしょうし、若いのに譲位させられた鳥羽上皇は複雑な気持ちだったでしょう。法皇の崩御後、それは復讐となって璋子母子に向けられていきます。

今はいいけれど、法皇も70歳を超えています。崩御の後、どんな波乱が起こるのだろうかと祇園の女御や、宇治に逼塞(ひっそく)した忠実は思った事でしょう。
「仏門に入れられなかったのか・・・」その方が幸せだったでしょう。しかし崇徳天皇は怜悧であり、法皇は曾孫(実は我が子)をぜひ帝にしたかったのです。(続く)

※ youtubeで「高堀枝裕二の祇園の女御、常盤御前」を公開しています。ぜひご視聴下さい!

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