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第111回 摂関家の若き当主・基実の死

永万2(1166)年7月26日、摂関家の若き当主・基実が26歳で亡くなりました。11歳の妻・盛子(清盛の娘)とは僅か2年の結婚生活でした。実質的には名前だけの夫婦だったかも知れません。
 基実は、かつて父忠通にその時の権力者・藤原信頼の妹と結婚させられましたが、男子を儲けてそれなりに幸せでした。しかし平治の乱で信頼が死罪になると、また無理やり離縁させられました。そして今度は平家の幼女と結婚と、全く自分の意思のない、権力に翻弄されながら送る人生に絶望したのでしょうか?

私は、私の曽祖父と祖父の事を思い出しました。亡き母に聞いた話ですが、曽祖父は淡路島の漁師で、ある嵐の時に鰯を取りに行って、大阪の港まで持って行って大儲け。それを元手に一時、多くの財産を築いたそうです。(まるで紀伊国屋文左衛門のような?笑)今の季節などは、京都の祇園祭に合わせて鱧(はも)を取って、しかも活き締め(いきじめー魚をコツンと麻痺させ鮮度を保つこと。活け〆とも)がうまく曽祖父の魚は評判が良かったそうです。しかし明治初年前後の生まれの曽祖父は悲しいかな読み書きができず、息子の嫁に、学問のできる家の女性を貰い、その父に経理を担当して貰いました。しかし曽祖父がいくら稼いできても売り上げが少なく、結局、横領が発覚し、怒った曽祖父は若い息子夫妻を離婚させました。男児が二人いてその次男が私の父です。

実家に帰され、我が子とも離された私の祖母は嘆き、25歳で病死したそうです。そして祖父も酒に走り、後を追うように若くして亡くなりました。どうしようもできない自分に絶望したのでしょうか?
後継ぎを失った曽祖父は老いてやがて収入も減り、更には羽振りの良い時に親戚に貸した多額の金も戻ってこず、裁判にまでしましたが、証拠不十分で負けてしまいました。遺言が「借金してでも子供には学をさせよ」だったそうです。だから私は貧しくても大学に行かせて貰ったのでした。(続く)

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