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第128回 白河天皇。皇子の死

大宮彰子が亡くなる前に、白河天皇の最愛の中宮賢子は懐妊していました。天皇は修法で名高い園城寺の頼豪(らいごう)阿闍梨(73歳)に安産祈願を依頼しました。
そして承保(じょうほう)と改元された(1074年)12月、賢子は第一皇子敦文親王を産みました。喜ぶ白河天皇。頼豪は褒美にと園城寺の戒壇創設を請います。
白河天皇は建てても良かったのですが、同じ天台宗ながら対立する延暦寺の抗議・反対により実現しませんでした。げに宗教の対立はどうして起こるのでしょう。恐いですね。頼豪は深く天皇を恨んだという事です。

賢子を愛しながらも、白河天皇は懐妊中は別の女性を欲し、敦文親王誕生の4カ月後に皇子が生まれますがすぐに僧籍に入れられています。(覚行法親王)
承保2年7月に河内源氏の頼義が88歳で亡くなり、惣領は37歳の義家が継ぎ、なかなか人気でした。
9月に、名ばかりの関白と嘆いていた教通が80歳で亡くなり、関白は師実(34歳)がなりました。教通は我が子で54歳の信長(!)に譲りたかったのですがかねてからの約束ですので仕方ありません。教通の子孫は急速に衰えていきます。

そして可愛い敦文親王が数えの4歳の承平4年9月、折からの赤疱瘡(あかもがき)流行に罹患し亡くなってしまいます。人々は頼豪の恨みのせいだと噂しました。(頼豪は、その時亡くなっていたという説もありますが、実際には7年後に亡くなっています)

消沈する白河天皇に、明るい賢子(21歳)は「主上、私はまた皇子を産みます!」と励ましました。白河天皇には賢子が支えでした。(続く)

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