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第14回 ウィルソン大統領とスペイン風邪

1918年11月半ばに大戦が終わったので、クリスマスを楽しみ、講和条約は翌年1月からフランスのパリで行われる事になりました。

ここで主導権を握ったのは米英仏の戦勝大国3か国でした。
アメリカ大統領ウィルソンは「無併合・無賠償」を提案しました。「賠償金が遺恨を残し、また戦争になる」との考えからでした。そして二度と世界戦争が起こらない組織「国際連盟」の提案を示しました。
しかし当然イギリスとフランスは猛反発します。「ふざけるな、どれだけ被害があったと思ってるんだ!アメリカは全く被害を受けなかったからそんな事が言えるんだ!」と。会議は何度も紛糾します。

しかし不幸がウィルソンを襲います。スペイン風邪に罹患してしまったのです。あの行動的で明確な発言をしていたウィルソンは腑抜けの様になってしまいました。
そして6月、ヴェルサイユ条約が結ばれます。ドイツに対して過酷な内容でした。まず海外の植民地は全部没収(英仏が中心になって分けました)。本土も13%割譲。そして賠償金は1320億金マルク(国家予算の20年分。現在なら約200兆円?)という巨額なものでした。

「私なら調印はしない」ウィルソンはそう言ったと言われます。
ウィルソンに更に追い打ちがいくつもかかります。ウィルソンはやっとスペイン風邪が治ったと思ったら10月2日に脳梗塞を発症します。これは極秘とされ、2番目の夫人イーディスが決済を代わってやり、リハビリで何とか乗り切り閣議に出席できるようになりました。しかしウィルソンは当り前ですが全く精彩を欠いていたと言われます。(この事実は死後明らかになった様です)
更に決定的だったのは、アメリカ上院が「国際連盟参加はモンロー主義に反する」と言う事で、ウィルソンが言い出した国際連盟に不参加という衝撃的な決定をしてしまいます。
11月に皮肉にも「国際連盟設立の功」でノーベル平和賞決定がウィルソンにもとらされますがどういう心境だったでしょうか。
1920年1月10日、国際連盟は正式に設立されます。

ウィルソンはとにかく大統領を2期務め、1921年3月4日に妻とホワイトハウスを次のハーデイング(2年後在職中に死亡)に譲り、ワシントンD.C.の自宅に戻って、24年2月3日に亡くなります。享年67歳。
そしてウィルソンの予言通り、この15年後、第二次世界大戦は始まってしまうのでした。(続く)

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