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第22回 リーゼ・マイトナーの脱出(1)

リーゼ・マイトナーは1878年11月、オーストリアのユダヤ人家庭で生まれた才媛です。「キュリー夫人2世」とか後年は「原爆の母」(こちらは本人は不愉快だったそうですが)と呼ばれています。
しかし当時は男女差別が激しく、明晰なリーゼもなかなか勉学の場につけませんでした。キュリー夫人の助手になりたいと手紙を出したら「今は空きがない」と断られています。
結局ベルリンのカイザー・ヴィルヘルム研究所で4か月年下のオットー・ハーンと組んでいろいろな研究をし、1938年頃は超ウランの実験に勤しんでいました。年をとっても美貌で後ろに髪を束ねて小さく丸くしていたそうです。
しかし1938年3月、母国オーストリアがナチスドイツに併合され、ユダヤ人への迫害がだんだんひどくなってきました。けれど物理学が好きなリーゼはベルリン大学の教授職を奪われても研究所に留まっていました。
しかし楽天的だったリーゼも5月になって、当局から「ユダヤ人のマイトナーを解雇せよ」と圧迫を受けて苦しんでいるハーンを見て、海外脱出を決意します。
すでにアインシュタインなど著名な科学者・化学者は国外へ亡命していました。更に近々自由に出国できないという噂もありました。
「どこがいいかしら」
差し詰め、甥でやはり科学者のオットー・ロベルト・フリッシュがいる隣国のデンマークに行こうとしました。フリッシュがいる研究所長は大科学者であるニールス・ボーア(神戸の外国人喫茶でカウンターの中にいるデンマークの方とボーアの話だけできました。それだけ著名なんですね)もいて誘ってくれたのです。
しかしひと足遅かった。デンマークの領事館はナチスに忖度して、就労ビザを出してくれなかったのです。(続く)

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