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第1回 白河上皇の乱倫

最愛の中宮・賢子を亡くしてから数年たって、白河上皇の女性狂いは歯止めがかからなくなりました。手当たり次第に女房を犯し、多くの法親王(ほっしんのう)が生まれました。(表沙汰にできないため出家させたのです)

寛治5(1091)年には、賢子の異母妹師子(19歳)に手をつけ懐妊しますが、これには実父・源顕房(55歳)が激怒しました。白河上皇(39歳)も、賢子の父親ゆえ抵抗もせずに諦めました。顕房は『大鏡』の作者にも擬せられるほど、摂関家にも忖度しない人だった様です。師子は皇子を産みましたが、またすぐに寺へ連れて行かれ、覚法法親王となりました。

3年後、白河上皇はまた女人への牙を剥きます。
8月、院の蔵人を勤め、三河守になった源惟清が白河上皇を呪詛した罪で、伊豆大島に流罪となり、父仲宗は周防へ、3人の弟たちも流罪となります。

これは実は惟清の妻が上皇好みで取り上げるためにやった事でした。あるいは先に事を起こして、恨みに思った惟清を禍根を断つため流したか。
その妻は、恐らく亡き賢子に似た明るい美貌の女性だったのでしょう。
鎌倉時代に2代将軍源頼家がやはり家来の安達景盛の妻を奪う時に、例として引用されています。昔こんな事もあったからいいのではないかと。もちろん母の北条政子は激怒しますが。

その女性は祇園に邸を与えられ、ひどく寵愛され、祇園の女御(正式な女御ではない)と呼ばれるようになりました。祇園の女御の願いは全て上皇が叶え、彼女への付け届けが増え、権勢も増していったのでした。

尚、惟清は生涯孤島から帰ってくる事を許されませんでしたが、弟たちは許され(無実の罪ですから当たり前ですよね)、信濃に行って村上氏となり、またその子孫からは明治期に夏目漱石が出ています!(続く)

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