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第37回 後白河法皇(3)兄・崇徳上皇

『暗夜行路』『華麗なる一族』の主人公の様な苦しみを崇徳上皇も持っておられました。つまり母が、舅(この場合は祖父)と通じてできた子であった。父から愛して貰えなかったという事です。

もちろん崇徳上皇が悪い訳ではありません。悪いのは全部独裁者・白河法皇です。でもそのツケを全部崇徳上皇は背負わされました。

ツキもなかったです。天皇の時、摂政藤原忠通の娘聖子を皇后として迎えました。もし二人の間に皇子が生まれれば、忠通は味方になってくれたでしょう。子供は生まれず、鳥羽上皇と美福門院得子を最初養子にするという事で聖子は一生懸命養育します。その愛情の隙を感じたのか崇徳天皇は別の女性ー兵衛佐(ひょうえのすけ)を愛してしまい重仁親王が生まれます。
悲しむ可愛い娘聖子を見て忠通は激怒。崇徳天皇の敵に回ります。

崇徳天皇に、皇太子に譲位すれば将来院政ができるとそそのかして、いざ譲位の宣命を見ると、「皇太弟」となっていてこれでは直系でないので院政は行えません。呆然としている間に式は終了しました。これを仕組んだのはひょっとしたら崇徳天皇を憎む忠通ではないかと思います。

譲位をさせられた崇徳上皇は和歌に励みます。
百人一首の「瀬をはやみ岩にせかるる滝川の われても末にあはむとぞ思ふ」の「われても末にあはむとぞ思ふ」の相手は聖子だったのでしょうか?
落語で面白く扱われていますが。それから今や敵となった忠通の歌が百人一首でその前に置かれているのは皮肉な事です。

即位した近衛天皇は病弱で1155年、17歳で崩御します。崇徳上皇は16歳の我が息子重仁親王の即位を期待しますが、全く無視で、何と同殿していた弟雅仁(後白河)が即位します。出て行く時、挨拶も無しに。
翌年父、鳥羽法皇が崩御し、崇徳上皇は面会に行きますが、「遺体を見せぬよう」との遺言で門前払いを受けます。
数々の屈辱に、当時、兄忠通と対立していた藤原頼長から乱を持ちかけられ同意しますが、相手が夜討ちして来たのに、頼長の変な戦法介入で「夜討ちは卑怯だ」としていたので呆気なく負け、頼長は結局自殺。

崇徳上皇は、かつて薬子の乱で平城上皇が平城京で留まっていたので、せめて畿内と思っていたら、まさかの四国・讃岐。
そこで写経に専念し、京の神社に奉納したいと送ると、後白河上皇は周囲から「呪いがかかっています」との讒言を真に受け、送りかえさせます。
そしてぼろぼろになって返ってきた我が五つの写本を見て、ここまで踏んだり蹴ったりされた我が身を省みます。
そして舌を噛み切ってその血で「我は魔縁(王)になりぬ」と書きます。
髪も切らず爪も切らず、本当に魔王の様だったと言います。

崇徳上皇は結局8年讃岐に居て、1164年、46歳で崩御しました。暗殺されたとも言われます。その間、傍らには愛する兵衛佐が支えてくれましたが、京では重仁親王が亡くなりました。慰めるためか、役人の綾氏の娘との間に一男一女がいたそうです。私は讃岐の白峰御陵に家内と行く事があったのですが、うら寂しい感じを抱きました。

その後、京では大火事など凶事が続き、平清盛の娘徳子が難産だというのでそれまで「讃岐院」だったのを「崇徳院」を贈られました。
崇徳院が怨霊となって祟っているのは南北朝の時もそうで、『太平記』でも後醍醐天皇を失敗させる様に暗躍しています。

明治天皇になった時、1868年魂を四国から京の白峯神宮に遷しました。もちろん怨霊を怖れ、慰めたからです。
そして興味深いのは1964年。これは前回の東京オリンピックが行われた年ですが、ちょうど崇徳上皇の八百回忌に当たる事もあって昭和天皇が勅使を讃岐まで送っています。「オリンピックを邪魔しないでね」という事でしょうか。無事に前回のオリンピックは終わりました。
今回は送ったのでしょうか?聞かないですが。今回ひどい五輪汚職が出て来たのも崇徳上皇の怨霊と関係はないのでしょうか?

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