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第6回 堀河天皇に皇子生まれる。

前回の追記:森鷗外の作品に『山椒大夫』というのがあり、その最後の辺りで関白師実が出てきます。丹後から必死で京に逃げて寺に隠れて僧形となった厨子王は、関白師実と出会い、厨子王が持っていた守り本尊から由緒ある平氏の子と知った師実は厨子王を邸に引き取り客人としてもてなします。厨子王は成人して平正道となり、丹後の国守となった正道はまず人買いの法を禁止し、生き別れになった母を訪ねて佐渡に渡り、盲目の老女となった母と再会し、母は目が見えるようになるという感動的な小説です。師実は良い人物として描かれていますね。(実際温厚な方だった様です。政敵を追い落とす事もなく、ただ好色・・・)しかし、人身売買はそれこそ昭和初期まであった様ですが。

さて、白河法皇はもちろん我が子の堀河天皇が可愛く、天皇も笛がうまく(一条天皇も笛が上手でしたね)法皇を喜ばせています。
歌会も多く、師実の死の翌年(康和4:1102年)閏5月7日には内裏艶書
歌合で祐子内親王(後朱雀天皇皇女)家の老女・紀伊が「音に聞く高師の浜のあだ波は かけじや袖のぬれもこそすれ」(百人一首)を詠んでいます。
その頃には堀河天皇の女御苡子が再び懐妊し周囲は気を揉んだでしょう。

そしてついに康和5(1103)年正月16日、苡子は皇子宗仁を産みます。
歓喜に沸き立つ宮中でしたが、苡子は産後の肥立ちが悪く、同じ正月の25日に28歳で亡くなってしまいます。出産というのは本当に女性にとって命を懸けたものだったのですね。

悲しみの中、白河法皇は9月、生後8か月の宗仁親王を東宮に立てます。後に鳥羽天皇となります。(続く)

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