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第44回 後白河法皇(10)木曾義仲(前篇)

後白河法皇と仲が良かったのに、やがて切り捨てられた人は多いです。それはわざとではなかったかも知れませんが。まず兄の崇徳上皇、乳母夫の信西、寵愛の藤原信頼、平家。それから多くの妃たち・・・木曾義仲もその一人でした。

義仲について述べると、また波乱の人生でした。父は源為義の次男義賢。次男ですが、為義は長男の義朝と折り合いが良くなく、義朝は関東に行って勢力を伸ばし、義賢は帯刀先生(たちはきのせんじょう)と言って、今回きちんと調べましたが、近衛天皇が東宮の時に警護する武士の長となってこちらが嫡男という扱いでした。

ただトラブルがあって解官され、藤原頼長に仕えました。そして頼長の男色の相手にされてしまいました。頼長の日記『台記』に実名が出てきて驚きます。息子の義仲は、色白の美男であったと言うし、東宮付きに選ばれるというのは容姿も考慮されたので義賢も美男だったでしょうか。
やがて義賢は父為義の命令で、義朝が居る関東へ対抗する為に送られます。そして1155年8月、義朝の長男義平(15歳)に館を襲われ亡くなります。享年は30歳前後だと言われています。源氏はそれぞれが優秀ですが、ほんとに一族仲が悪いですね。

義仲は数えの2歳で駒王丸と言われ、母は遊女だったという説がありますが、義平は駒王丸の命まで狙ったので、畠山重能(重忠の父)や斎藤実盛の計らいで駒王丸の乳母の夫中原兼遠がいる木曾に母親と共に預けます。中原兼遠が懐に抱いて関東から逃げたという説もあります。
兼遠が乳母夫となったのは、当時信濃で義朝と仲の良い平賀氏と対立しており、それで義賢の子を預かるという話になったのでしょうか。また当時、斉藤実盛は義朝に仕えていましたが、義賢にも旧恩があり、駒王丸を助けたとも言われています。

義賢は気の毒ですが、まあ翌年1156年の保元の乱で勝った側の源義朝は、負けた側についた父為義と弟達を為朝以外みな斬ったので(為朝だけ流罪)、その時に亡くなったかも知れません。なお、駒王丸には京都に異母兄がいて源頼政の養子となりますがこの方もまた以仁王の乱で亡くなります。

それで1180年4月、以仁王が全国の源氏に書き送った「平氏を討て」という令旨が27歳に成長した義仲の元まで届きます。義仲は中原兼遠の娘を妻として義高を儲けており、更に妻の妹・巴も側室としていました。巴にも男児が生まれています。兼遠の息子樋口兼光や今井兼平らは義仲の忠臣となっていました。

5月に以仁王は戦死しますが、8月に関東で頼朝が挙兵したのを受けて、9月に義仲も挙兵し、一時は関東に向かいますがまた引き返しています。
これは頼朝との関係が微妙だからでした。父の仇である義平は亡くなっていましたが、頼朝はその弟です。人質暮らしで人を信用しない頼朝も従兄弟ですが、因縁の義仲とは協力する気はなさそうです。

義仲は頼朝一派の勢力が浸透していない北陸方面に進軍します。そして1182年以仁王の遺児が庇護を求めに来て「北陸宮」として義仲も大義名分を得ます。
1183年2月、頼朝も不和となった叔父行家を受け入れた事で頼朝との仲が悪化。義仲は息子義高を人質として鎌倉に送ります。

5月、倶利伽羅峠の戦いで10万とも言われる平家軍は夜の奇襲で混乱し、断崖に多くが落死し退却します。その後の篠原の戦いの戦死者の中に、義仲は命の恩人である斎藤実盛の首がある事を知り嘆きます。実盛は70歳ほどでしたが、白髪を黒く染めていたのでした。義仲が「白髪の武将を討ってはならぬ」と言っていたという話もあります。

7月に比叡山とも手打ちした義仲はいよいよ入京しようとします。その情報を得た平宗盛は7月25日早朝、西国へ都落ちします。その際に後白河法皇も伴うつもりでしたが未明に比叡山に逃げられてしまいます。(続く)


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