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第51回 那須与一

1185年2月19日の屋島の戦いで、那須与一(17~20歳。諸説あり)は扇の的で後世に忘れられない活躍をしました。
源義経の得意の急襲で、船で沖へ逃げた平家。途中で義経軍は船を持ってないと気づきます。そして夕刻。挑発するかのように扇の的を掲げたのでした。義経は最初与一の兄を指名しましたが、兄は辞退、弟の与一が射る事となりました。(兄はその後処罰されています)

下野(しもつけ:栃木県)の出身。体格は小柄でも弓は抜群。練習しすぎて左右の手の長さが違ったとか。今でもテニスプレイヤーでそんな人聞きますよね。
さて、時は現在の3月下旬。夕刻。80m近く先で冷たい風が吹いている。悪条件です。最近のテレビ企画で同じ条件でやってみたのがありましたけど当たるものではない。周囲も固唾を飲んで見守り、与一も失敗すれば死を覚悟していたと思います。
ところが矢は見事に扇に命中。扇がひらひらと海面に落ちたと『平家物語』の中でも圧巻の場面でしょう。

翌月の壇ノ浦の戦いではあまり名が出てきません。活躍しすぎては駄目だと遠慮したのでしょうか?しかし鎌倉に帰って荘園5か所を与えられ、新田義重の娘を妻に貰います。そして平家方についていた兄9名も赦免されます。与一というのは十一男という意味だそうですね。

しかし事態は急変していきます。義経が兄頼朝から攻撃されていくのです。義経と親しいというだけで処罰されています。義経の舅河越重頼は殺されました。
屋島で義経の部下として華々しく活躍した与一は不安で仕方なかったでしょう。事実、あの梶原景時から讒言を受けたという説もあります。

1190年11月、頼朝は上洛して後白河法皇と対面します。その時に与一も来ていたのですが、伏見の即成院(泉涌寺内)に行った時に急に発病し亡くなってしまったというのです。
私も行った事がありますが、与一の墓としてとても大きな石塔がありました。まさしく「死にました」と強調するような。その下に遺体があったとしても石塔が重すぎて確認できなかったでしょう。

いろいろな諸説があって、即成院で出家し、34歳で亡くなった。(屋島の時17歳とすると22歳で亡くなった事になります)
なぜ即成院に行ったかというと、屋島の戦いの前に与一は病気をして即成院で拝んで貰って治ったので感謝して行ったのだという事になっていますが。

各地に墓があって、興味深いのは出家して68歳頃に須磨で亡くなった。なぜえ須磨かというと、あの扇を持っていた玉虫という女性と結婚し、玉虫の故郷が須磨だったから、というどこまで本当か分からない伝説があります。
しかし私は拙著『平家物語誕生』で素性は分からないがとても源平の戦いに詳しいもと東国の武士である僧・生仏(しょうぶつ)が実は那須与一だったという筋にしました。まあ小説だから許されるかな?(笑)

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