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第29回 越前での香子(紫式部)

長徳2(996)年の夏から秋にかけて香子(27歳か)は父為時一行と共に越前に向かったと思われます。
途中、琵琶湖を船で北上する時、嵐に揺れて香子たちは恐い思いをしたでしょう。
また塩津の山道では、自分たちの輿を担ぐ人夫たちが、「辛(から)き道かな」と言っているのを聞いて、「塩だから辛いというなんて、人夫にしては面白い事を言ってるわ」と思ったとありますが、後年香子はこの事を恥じています。宮中でも輿を担ぐのに苦しむ人を見て、「この人達と私達と一体何が違うというのかしら」と身分制に疑問を抱いています。これは「身分の高い人は尊い、低い人は卑しい」と身分制を肯定(表面上は)していた清少納言と対照的です。

越前に着いてからは特に雪に降りこめられる冬は退屈だったでしょう。異母妹も同殿しましたがほとんど感想の記録もないので交流は余りしていなかったのでしょう。しかしこの時間は来たるべき壮大な物語の基礎を練るには役立ったことでしょう。
京では何と、東宮妃綏子と源頼定の密通の噂が賑わっていました。東宮に愛されなかった綏子を間隙を縫って、美男の頼定が通い男児も生まれましたが秘かに寺へ送られたというのです。
「東宮妃も道ならぬ恋をするのね」と香子は思った事でしょう。
楽しみは遠く九州へ行ってしまった親友(従姉)からの便り。そしてずっと手紙を送ってくる宣孝でした。ある時、手紙に赤い点々があって「これは私の涙です」などと冗談で書いてあります。

香子は結局約1年と少し越前に居て、長徳3年(2年居て長徳4年説もあり)の10月頃、雪が降る前に単身で帰京した様です。それは可愛がってくれた祖母と伯父為頼の容態が悪くなったという事でした。そして京へ帰れば周囲から宣孝と結婚させられるという予感を香子は持っていたことでしょう。 (続く)

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