最近の記事

吐息

「紀子でしょ。紀子だよね」  精神科病棟への渡り廊下から声がした。木戸紀子が振り向くと、防火扉に身体が半分隠れた小太りの女性が立っていた。髪を短く刈上げて、灰色のジャージの上下を着ている。  紀子は昼休みに仕事が掛かったため、他の職員より遅れて院内食堂へやってきた。食堂の右手は別棟になっている精神科病棟で、本院とは長い廊下で繋がっていた。 「いやぁ。紀子、変わんないね」  近づいてきて紀子をなめるように見回す。目尻に深い笑い皺を刻んだその女性の、口から漏れた吐息は干草の匂いが

    • 冬の月

       玄関の引き戸を開けると、寒気が8歳の光子を包んだ。空はどんよりと重く、薄雲のかいまに仄かに月明りが見えている。  両手で飯釜を持って、裸電球が一個ぶら下がった共同炊事場へ向かう。雪の白さと、炭鉱の六軒長屋の家々から漏れる灯が頼りだった。  長屋の東の角を過ぎ、用水路をまたぐ橋を越える時、足もとが滑り米粒を浸してある釜の水を少しこぼした。  左右に伸びる道路を挟んで炊事場があった。一間四方の屋根の下は吹き放しで裸電球がぶら下がっていた。用水路側に横長の流し台が据え付けてあり、

      • 月影

         弦月の明かりの中、轡をはめ毛布一枚敷いた裸馬に乗った少年が、国道36号線を西へ進んでいた。少年の頬には涙の乾いた痕があった。手綱を引くでもなく、栗毛駁の歩みに任せうつむいて揺られている。国道を通る車は少なく、薄の白い穂がサワサワと鳴った。  少年の名は坂上信男、十二歳。昨日父を亡くした。父親は長く肺を患い函館の療養所に入っていたが、大喀血をして死んだ。信男は物心ついてから、父とはほとんど一緒に暮らしたことがない。  父の遺体は、母と叔父に連れられて今日帰ってきた。午後、母

        • 後ろ安し

           2012年5月12日 土曜日         午後6時25分                            背後で自動ドアの閉まる音がした。早歩きで西へ向かう。ショッピングモールの日よけから出る前に、夕日が木下健一を捉え眩しくて顔をそむけた。そのままちらっと後ろを振り返り、誰も追ってきていないのを確かめる。  バリアフリーの長い通路を過ぎて右へ折れ、桑園発寒通りへ出たところで「フウーッ」と長い吐息をついた。今まで呼吸をしていなかったような解放感があった。縮んだ肺に促

          紅をさす

           宮丘公園のトンネルをくぐると右手に住宅街が広がる。そこから山側へ登って行き、住宅脇の細い道を何度か折れて、突き当りに自然の木立に囲まれた蕎麦屋『閑庵』がある。  主人の花井敬一は玄関前の石畳に水を撒いていた。11時、蕎麦は打ち終わり、昼を食べにくる何組かの常連のいつもの献立も準備してあった。妻のゆきは庭で摘んだ花を、各卓に活けているところだ。暖簾越しにエプロンと寸胴ぎみの脚が見えている。 「敬一さん、澤山さんがいらっしゃったわ」  中から声がした。灌木が並ぶ前庭から通りは見

          紅をさす

          枯れ葉

           二人は『アベニューエイト』というマンションの自転車置き場にいた。目的の大通り公園8丁目に着いた途端小雨が降り始め、ここへ駆け込んだのだ。自転車置き場の波のような屋根を覆うように、黄葉した大木のイチョウとスズカケの樹があった。 「兄ちゃん、手が出てきた」  妹の祐が指差す方を見ると、マンションの3階の窓から雨の中、手のひらを上に向けて腕が出ていた。 「ママはここの3階にいるのでしょ。ママの手かな」 「違うよ」  信は祐にそうは言ったものの、母の可奈子がここの3階に住んでいるの

          枯れ葉

          庭の贈り物 4月

           札幌市の西方に位置する我が家の庭で、雪が解け始めて真っ先に顔を出すのはフキノトウだ。そのフキは京ブキという種類だと分けてくれた知人が言っていた。山や土手に出るものよりトウも葉も細く小さめ。  笊に山ほど採れたトウを丁寧に洗って天ぷらにする。えぐみや苦みは少ないが、香りが高く春そのものの味わいだ。トウが咲き終わり、若葉が出始めるのは水仙が咲くころ。若葉もそのまま天ぷらにする。トウや茎とは違い、青臭く濃厚な味わい。  私のフキ味噌レシピは、香りが強い方が美味しいので、山ブキの

          庭の贈り物 4月

          目差し症候群

           肌寒い5月の夕暮れ、札幌の西のはずれにある山川駅に電車が入る音が響いた。貴子は二階待合室の奥のベンチに座り腕時計をみる。高井と滝口が、今の電車に乗っているはずと立ち上がり改札に目をやった  二人は、貴子の前の職場の同僚で、ともに9歳年上の姉貴分だ。高井は正社員、滝口はたか子と同じパート社員だった。貴子は、5年前に転職し今の職場で正社員として働き始めたが、仕事を離れても二人とは付き合いが続いている。  二人の特徴を一口で言えば、自分の審美眼を信じるばかりに、あけすけな物言いを

          目差し症候群

          画家の爪絵

          「カフェ・セレーヌ」は国道5号線に面して、小樽に近い住宅街のはずれにあった。レンガ色の壁と褐色の扉に、散りはじめたユキヤナギの白が浮き立って見えている。西側の二十四軒手稲通りに面した庭には、新芽を吹いたツルバラが、生垣風に誘引されていた。  裕貴はカフェの前の空いた駐車スペースに紺色のプリウスを入れた。降りる前に腕時計を見る。約束の午後2時には少し早いが、10年来の友人である知保子は、いつも約束の時間にぴたりと合わせてくるので丁度よい。車を降りて店の扉を開けた。ドアベルが柔ら

          画家の爪絵

          万華鏡

           「マミ、元気か。  突然こんな手紙をもらって、驚いていると思う。盆休みのクラス会では、なにも話せなかったから、手紙を書くことにした。  高校卒業以来、久しぶりに会ったあの日、本当はマミといろいろ話したかった。  看護学校は、勉強や実習が大変と聞いているけど、元気そうで、相変わらずはつらつとしていたね。明るい笑顔が眩しかった。  君はきっと優秀な看護師になるよ。手先が器用だし、いつも冷静なのに心温かだ。そして、看護師になるという夢を叶えるために、こつこつ努力をしてきた。保証

          万華鏡

           陽がカラマツ林の向こうへ落ちて、薄暗くなった。緩やかな下り坂を小走りで降りている。片桐夏子は、白い花柄のワンピース姿だった。美しい刺繍の花が散ったフレアは、夏子の動きでひらひらと軽やかに揺れる。夕暮れ時の林の中は、虫の音が賑やかだ。街路灯は明るさを増し、周縁を丸く照らす。 「涼太ったら。追っかけても来ない」  夏子は後ろを振り向いて独り言ち、屈んで両手を膝に置いて息を整えた。別荘を飛び出してからずっと走っていた。全身が汗ばんで湯気が立つようだ。 「どうして来ないのよ」  二

          苦杯を空けて

          #習慣にしていること  私は貝類のアレルギーだ。20代の時、昼食に海鮮ラーメンを食べた真夜中、腹痛が起きた。経験したことのない、胃から腹部にかけて絞られるような痛みだった。3時間ぐらい汗をかきかき七転八倒して、お腹が空っぽになったと思ったら、痛みは徐々に引いていった。  以来、何度か同じ症状が出現するようになった。当初は何が原因かわからず、痛みを繰り返すうちに、貝を食べて10時間以上たつと症状が出るとわかってきた。  貝類の加工品も駄目で、知らずに帆立入りのせんべいを食べた

          苦杯を空けて

          乗り物酔いの遺伝型

          #最近の学び  昨年の7月末に娘と初めてヨットに乗った。小樽湾をめぐる90分間のセーリングだ。風を受けるためのジブセールが2本あり、白い船体にブラウンの線が入った美しいヨットだった。  爽やかな天候と海の穏やかさがあいまって素晴らしい体験だった。娘は乗り物酔いをしやすいので、用心のため酔い止めを飲んでの乗船だったが、薬が効いてくれたようだ。  ヨット体験が終了する9月末までに、もう一回乗ろうと家族を誘った。長男は「揺れるところは嫌だ」とにべもない。  彼が『円山動物園』で

          乗り物酔いの遺伝型

          夏野菜のヒット

          #私のイチオシ  我が家の料理の話である。その年の天候や土のあんばいによって、家庭菜園で収穫できる野菜の取れ高は違う。夏野菜が、売れるほど採れる年がある。家族も配った友人も飽きるほど、毎日順調に育ち続ける野菜たち。それをどう調理して食べるかは大きな課題となる。  数年前、キュウリが大豊作だった夏、いかにやっつけるか思案して、「佃煮」というものに行き当たった。醤油、酢、みりん、塩昆布や干しエビで味付けする。5、6本のキュウリがジャムの小瓶2個分くらいの佃煮になる。白いご飯にぴ

          夏野菜のヒット

          遠隔操作

          #わたしの本棚  米国のミステリー作家ジェフリー・ディーヴァーの小説「スティール・キス」を読んだ。脊椎損傷の犯罪学者リンカーン・ライムのシリーズ十二作目だ。  ライムが初めて登場する「ボーン・コレクター」という20年以上前の作品は、映画になり、白人のライムを黒人俳優のデンゼル・ワシントンが演じて話題になった。残念ながら映画の方はシリーズ化しなかった。 「スティール・キス」は通行人がエスカレーターの誤作動で、乗降板の終点の開いた穴に落ち、歯車に巻き込まれてじわじわ死んでいくと

          遠隔操作

          さよなら蔵書

          #私のコレクション  夫婦ともに隠居生活になった数年前から、少しずつ家の中を整理している。2年前、パンデミックの最中の春に億劫で先延ばしにしていた蔵書の整理に取り掛かった。  図書室にしている2階の部屋の、場所を取るブリタニカ百科事典、文学全集3種類。ガイドブックや文字が小さく、行間が狭くて、もはや読めない文庫本を処分することにした。子供たちが置いていった不用と思われるアニメ、専門書なども本棚から降ろして床に積んでいった。さて、この本の山をどうするか。インターネットで調べた

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