器の中身(小説)
前編
うとうとしてどこかの駅を通り過ぎた時、窓側の席に座っていた僕に圧巻の景色が待っていた。
インドの西、ムンバイから中央のハイデラバードへと向かう2等の列車の旅。向かい合わせの席で一緒に乗り合わせたのは、インド人の家族連れだった。
「君はどこに行くんだい?」
「南インドの聖地を周りたいんです」
するとバックパックにくくられている3ウェイの寝袋を見て、
「その寝袋の中身は羽毛かな?ヒンズーの寺院では殺傷を嫌うよ」
「そうでしたか………」
その寝袋は、池袋のアウトドアショップで2千円で売られていたもので、安いからたまたま購入したものだった。
ちょうどお昼時だった。また名前も知らないどこかの駅に到着し、売り子さんが列車内にやってきて食べ物を売っていく。
僕はビリヤニというインドの炊き込みご飯を30ルピーで買った。
列車はもう動き始め、車内にいた売り子さんはいつの間にかいなくなっていた。
「君の職業は?」
「学生です。大学で看護学を学んでいます」
「よく分からないんだが、アシスタントドクターみたいなものかな?」
「ええ、まぁそんなところです」
僕は適当に話を切り上げた。男性の看護学生なんて日本でも珍しい。
葉っぱで包まれたビリヤニは素晴らしい味だった。
僕は成田を出てニューデリーの空港に着いてからいままでの事をなんとなく思い出す。
よし、今のところ旅を楽しんでいる。
しばらく回想にふけっていると、家族連れが食べ終えて空になった容器を僕に差し出し、窓から捨てろというジェスチャーをする。
「ゴミ箱は無いんですか?」
「ゴミ箱?そんなものは無い。なんでそんなことを聞くんだ?みんな捨てているじゃないか」
そう、ここはインドだ。インドではゴミは道端に平気で捨てるものだし、僕が嫌がってもどうしようもない。
手渡された容器と僕の空になった容器を、窓の外に出し手を放す。あっという間にどこかに飛んで行ったゴミは、いつか地中へと帰るのだろう。
しばらく窓の外を眺めていると、インド人の父親が小学生ぐらいの息子に、何か話していた。
「いいかい、人間には器と言うモノがあるんだよ」
「器?」
「大きい壺みたいなものさ。どれくらいその中に水を入れられるかで人間は決まるんだ」
「小さい壺だとどうなるの?」
「あっという間にあふれてしまう。でもね、大きいだけでは駄目なんだ。要はどれだけの水をその中に入れることが出来るかなんだよ」
「ふーん。」
「この旅人は………いやよしておこう」
僕はふと考える。僕の器はどうなのだろうか?その中に入れるべき経験を積んできたとは言えるのだろうか?
家さえまばらな森林地帯を列車はただ走ってゆく。
今でも僕はこの時の事を思い出す。
後編
看護大学を卒業した僕は知人のつてで、精神科病院に就職した。
右も左も分からない僕の教育係を務めてくれたのは3年目のナースの鈴木さんだった。
「今日も保護室担当かぁ」
「君にはPICUはまだ早いよ。じゃあ検温お願い」
「はい、入浴の日でしたよね、順番に連れて行きます」
精神科病棟の保護室は、ベッドとトイレが付いているシンプルな個室で、入院患者がけがをしないように、壁なども柔らかい素材でできている。
もちろん分からないようにカメラもついていて、ナースステーションから患者の様子を見ることが出来る。
田村さんという若い女の方が現在入っていて、この方は意思の疎通は出来るが鬱を患っており、いろいろな点で心配だった。
ときどき、なぜ自分がここにいるのかもわからない様子でじっとしている。
「おはようございます田村さん、入りますよ」
その瞬間、僕は妙な違和感を感じていた。
まず電動式のベッドが中途半端に持ち上がっていて、田村さんがその上に腰かけてうつむいている。
そして手首から血を流したまま、ちからなくこちらを振り向いてきた。
「ちょっちょっちょっと、田村さんその手首どうしたんですか?」
「何でもないよ、ちょっと自傷してみただけ」
「いったいどうやって?」
よく見るとプラスチック製のコップが割れていて、どうやら電動ベッドを動かして割ったらしい。
そしてとがった破片で手首に傷をつけたようだった。
一気にパニックになった僕は、教育係の鈴木さんのもとに走って行って助けを求めた。
「どれどれ、静脈まで行ってないし、ひっかき傷だね。ちょっと先生を呼んでくるから待ってて」
そう言い残して鈴木さんは部屋から出て行った。
「どうしてこんなことを………」
「あのね、自傷をするとなんだかホッとするの」
「でも傷つけるのは痛いでしょう?」
「あのね、このまま死んでも良いかなと思っていて、それでも血を見ると生きているんだなって」
その後のことはよく分からない。僕はナースステーションで田村さんの看護記録をかきながら、あの時の部屋の様子がなかなか頭から離れなかった。
そんなこんなで病棟で色々な経験をしているうちに、僕は心底看護師を辞めたくなった。
僕にできる事なんて何もない。
あの時のインド人の言葉をふと思い出す。そしてそっと独り言をつぶやいていた。
「僕の器はとても小さかったんだな、そしてそもそも中に入れるものを間違えたんだ」と。
(終わり)
読んでいただいてありがとうございます。以前書いた小説の再掲です。実体験から書いたのである意味ノンフィクションです。
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