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二眼レフ体験記①

 以前、二眼レフカメラを組み立て、使い始めたことをnoteに書いた。それからというもの、何となく気が向けば、あるいは詩情を感じれば(←言いたいだけ)その風景を撮ることにしていた。ようやくフィルムを使いきったので、いざ現像に。

 結果として、室内で撮ったものはほとんど光量が足りず、何を撮ったのか分からない有り様。一方、屋外の場合はピントがややぼけてはいるが、なかなかどうして味わい深いものも幾つか。
 せっかくなので、屋内かつ、まだ写真としての機能を果たしている二枚を、表紙に写真の一部と、以下に一枚、合計二枚載せておくことにする。なお表紙の写真に映っている刀は、例の「歌仙兼定」(模擬刀/木製)

 当然、これらはスマホアプリなどで加工されたものではなく、光量とピントの具合が生み出した偶然の産物。
 だからこそ、たとえブレてはいても、【記憶】としての大切さのようなものが、僕個人には感じられる。確かにこの光景が存在していたことを、確信できる。
 これが「記録」のための撮影であれば、この出来なら消去されもするだろう。だけども、フィルムの場合はそういう選択肢が出てこなかった。構わない。一枚一枚が貴重であり、そしてまた寛容でもある。
 よく言われることだが、日本人は写真を見る・鑑賞することが少ないらしい。絵画ほど写真展には行かなかったり。
 それはおそらく、写真の地位の高低うんぬんというよりも、誰しもが写真を撮るからこそ、その有難みが薄れるのだと思う。
 
 だが、もしかすると写真が身近であるからというよりも、そのプロセスにきっかけがあるかもしれない。スマホではなく、「カメラ」で撮るという行為が減少することで、より他の承認を行う機会が失われているのではないだろうか。
 自分自分……と撮った写真をSNSに載せ、“いいね”さえも自分の傾向性ハビトゥスを示す行為でしかないのならば、写真は作品ではなく、確かにひとつのツールでしかないわけだ。

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