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「日高見国」とは?

「ひだかみのくに」で変換キーを押したら、「飛騨上国」と変換された。
「飛騨国以東の国か。『もののけ姫』とか、照葉樹林文化論だな」
と思いきや「日高見国」で、太陽信仰が関係しているらしい。

 太陽信仰であれば、日本で最も高い富士山周辺の国かと思ったら、古代日本人には垂直思考はなく、水平思考であるので、最も早く日が昇る最東端の国らしい。大和政権がある紀伊半島の東端は伊勢であるが、さらに伊勢の東の本州の最東端の地は?(本州の最東端は岩手県宮古市の魹ヶ崎(とどがさき)であるが、古代人は、「日本列島で最も早く初日の出が昇る」という千葉県銚子市あたりと考えたのではないだろうか? そして、そこに日高見国があったのでは?)

  日高見国=日立国(常陸国)=高天原=邪馬台国?

 『日本書紀』は、奈良県史であり、他の王国(北九州の倭国、出雲国、茨城県の日高見国など)の歴史は「神話の国の歴史」として、神代に収められているようである。

 その『日本書紀』によれば、日本武尊の東征とは、「日高見国征伐」のことであるから、日高見国は、大和国ではなく、大和国の東に位置する国であることは明らかであるが、具体的な位置については諸説ある。

※『日本書紀』「景行紀」に、東国を巡察してきた武内宿禰が帰朝して「東夷(あずまのひな)の中に、日高見国有り。其の国の人、男女並に椎結文身(ついけいぶんしん)し、為人(ひととなり)勇悍なり。是れ総べて蝦夷と曰(い)ふ。亦(また)、土地(くに)沃壌にして曠(ひろ)し。撃ちて取るべきなり」と進言したとある。

二十七年春二月辛丑朔壬子、武内宿禰自東国還之奏言。「東夷之中、有日高見国。其国人、男女並椎結文身、為人勇悍、是総曰蝦夷。亦、土地沃壊而曠之。撃可取也」。

(景行天皇27年春2月(きさらぎ)の辛丑(かのとのうし)の朔壬子(みづのえねのひ)。武内宿禰が東国から還って奏言するに、「東の未開の地の中に日高見国がある。 その国の人々は、男女共に髪を結い分け、体に入れ墨を施し、 勇敢で強い。この人々の総称を「蝦夷」という。 また、土地は肥沃で広大である。攻撃して奪い取るべきである」と。)

※こうして景行天皇は、息子・ヤマトタケルを蝦夷討伐に向かわせる。

『日本書紀』景行天皇27年2月


説①日高見国=大和国
(『大祓詞』では「大倭日高見国」)
・「日高見」は「日の上」のことであり、大祓の祝詞では天孫降臨のあった日向国から見て東にある大和国のことを「日の上の国(日の昇る国)」と呼び、神武東征の後、王権が大和に移ったことによって「日高見国」が大和国よりも東の地方を指す語となったもの(松村武雄)

説②日高見国=大和国の東の蝦夷地(『日本書紀』『常陸国風土記』)
・『常陸国風土記』では、蝦夷(東北地方)との出入り口である常陸国信太郡(茨城県稲敷郡一帯)だとする。

日高見国
信太郡云々。古老曰、「御宇難波長柄豊前宮之天皇の御世、癸丑年に、小山上物部河内、大乙上物部会津等、請総領高向大夫、分筑波茨城郡七百戸、置信太郡。此地本日高見国也」。

(信太郡云々。古老曰ふ。「難波長柄豊前宮御宇天皇の御世、癸丑年に、小山上物部河内、大乙上物部会津等、惣領たる高向大夫に請けて、筑波、茨城郡の七百戸を分かちて。信太郡を置く。此の地は、本、日高見国なり」。)

今の信太郡だそうだ。古老が言うには、「孝徳天皇の御世の白雉4年(653年)に、小山上(しょうせんじょう)の位にあった物部河内と大乙上(だいおつじょう)の位にあった物部会津らは、坂東惣領の高向大夫(たかむこのまえつきみ)に要請して、筑波郡と茨城郡の両郡から合わせて700戸を分離して、信太郡を設置した。ここは、昔、日高見国があった場所である」と。

『常陸国風土記』(『釈日本紀』)
https://dl.ndl.go.jp/pid/993824/1/33

「物部河内」「物部会津」と、地名が名前になっている。「蘇我蝦夷」のようなものか?

・安倍晴明の母が住んでいた信太(大阪府和泉市)は「しのだ」と読むが、ここは「しだ」と読み、語源は、『常陸国風土記』に「日高見国の別名・赤幡垂国(赤幡が垂れる国)による」とある。

黒坂命征討陸奥蝦夷、事了、凱旋。及多歌郡の角枯之山、黒坂命、遇病身故、爰改名「角枯」、号「黒前(くろさき)山」。黒坂命之輸轜車(はぶりぐるま、ひつぎぐるま、棺車)、発自黒前山、到日高見之国、葬具儀赤旗、青幡、交雑、飄颺。雲飛。虹張。熒野、輝路。時人謂之「赤幡垂国(あかはたしだりのくに)国」。後世言便称「信太国」(しだのくに)、云々。

 神八井耳命を祖とする多氏の黒坂命は、陸奥(みちのく)の蝦夷(えみし)の征伐に赴き、事が終わって凱旋した折、多歌郡の角枯山(つのかれやま)に至ったところで、病を得て亡くなった。このため「角枯山」を改めて「黒前(くろさき)山」と名付けた。黒坂命の棺を載せた霊柩車がこの黒前山を発って日高見国に到着するまでの間、葬礼の赤幡と青幡が入り交じって風に翻り、雲が飛ぶように流れて、虹が架かり、野原を輝かして道を明るく照らした。当時の人々は、この気象現象を見て、日高見国を「赤幡垂(あかはたしだり)国」(赤幡が垂れる国)と名付けた。後の世に音便変化して「信太国」(しだのくに)と称した。

※黒前山:茨城県日立市と高萩市に跨る竪破山(たつわれさん)のこと。水戸藩主・徳川光圀が、源義家の故事にちなんむ岩に「太刀割石(たちわれいし)」と名付けて以降、「竪割山」「竪破山」と呼ばれるようになった。巨石信仰、山岳信仰の山で、山頂には黒坂命を祀る黒前神社がある。

『常陸国風土記』(仙覚『万葉集注釈』)
https://dl.ndl.go.jp/pid/993824/1/34

・物部氏の本拠地の1つに出雲国があるが、出雲弁と東北弁が似ているのが気になる。


説③日高見国=大和国の東の架空の地で特定の場所を指すものではない。
・実際の地名とは関係ない空想の地で、日の出る方向によった連想からきたもの(津田左右吉)
・大和国の東の国々。蝦夷が住む東の国々の意味で、特定の場所(国)を指すものではない。

説④日高見国=東北王朝「日本国」
・「日高見」とは「日の本」のことであり、古代の東北地方にあった日高見国(日本国)が大和国に併合され、「日本」という国号が奪われた。(高橋富雄)
・北上川流域(金田一京助)=陸奥国
・日高見神社(宮城県石巻市桃生町太田)

・田中英道『高天原は関東にあった』2018
・田中英道『日本の起源は日高見国にあった』2018

説⑤日高見国東進説「蝦夷の北走」

・最初の日高見国は九州の日田市で、そこから東進して東北に至る。(神尾正武)





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