見出し画像

物部神津麿保房『高良玉垂宮神秘書』

 私は、田川=邪馬台国説には反対で、田川の前方後円墳は卑弥呼の墓ではなく、「高良」(田川郡香春)の「玉垂」(汐干玉&汐満玉の所持者)である高良玉垂命の墓だと推測しています。

 田川について調べると、高良玉垂命よりも(神功皇后=卑弥呼、神功皇后の妹・豊姫=台与とするには年代が100年異なるが)神功皇后の話がよく出てきます。(高良玉垂命は、神功皇后の側近の武内宿禰なのか?)

 また、秘伝に手を出すと頭が混乱するので、記事「高良玉垂命の謎」では、『高良玉垂宮神秘書』について言及しませんでした。

話変わって、宗像大社の秘伝に
──宗像の子は住吉で、孫は宇佐。
があります。
全国に約2300社ある住吉神社の内で「日本三大住吉」と呼ばれているのは、
・筑前国一之宮・住吉神社(福岡県福岡市博多区住吉):元宮
・摂津国一之宮・住吉大社(大阪府大阪市住吉区住吉):和御魂
・長門国一之宮・住吉神社(山口県下関市一の宮住吉):荒御魂
の3社です。全て式内社(名神大社)で、全て「国内一之宮」という社格が凄い!

※現在、総本社は大阪の住吉大社ですが、「日本最古の住吉神社」と自称しているのは、長崎県壱岐市芦辺町住吉東触の住吉神社です。

 いずれにせよ、住吉神社は、神功皇后の三韓征伐関連神社ですから、
・出港した大阪湾の住吉大社(分祀)
・朝鮮半島に向けて出港した対馬国和珥津(わにつ)の住吉神社
・帰港した北九州(壱岐市郷ノ浦町大浦触)の住吉神社(日本最古)
が重要になります。

 住吉大神(住吉三神)は、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が黄泉国の穢れを落とすために「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で禊を行なった時、天照大神が生まれる直前に生まれた神であり、「住吉三神は伊弉諾尊の子」なのですが、「天照大神が生まれる直前に生まれた住吉三神が、天照大神と素戔嗚尊の誓約で生まれた宗像三女神の子」というのは記紀(『古事記』と『日本書紀』の総称)的にはありえません。

※宗像大社
・福岡県宗像市田島の辺津宮
・筑前大島(福岡県宗像市大島)の中津宮
・沖ノ島(福岡県宗像市大島沖之島)の沖津宮
の3社の総称であるが、現在では「辺津宮」のみを指す場合も多い。

※秘伝『正統竹内文書』では、宗像大神は、宗像三女神ではなく、須勢理姫命 (すせりひめのみこと)だとしています。とすると、「宗像の子は住吉」というのは、「須勢理姫命の子が住吉大神」ということ?

※須勢理姫命:素戔嗚尊の末子。当時は末子相続制であったので、素戔嗚尊の全財産を受け継いだ。結果的に須勢理姫命と結婚した大国主命が素戔嗚尊の全財産を受け継いで、国津神のトップに立った。

 先に進みます。
「八幡大神は住吉大神の子」というのはどうなのでしょう?

 八幡大神は北九州生まれですが、八幡大神=応神天皇であり、仲哀天皇と神功皇后の子であることは明らかです。

「秘伝」は誰にも知られたくない史実なのか、学者の耳に入る心配がないから、出鱈目でもOKなのか? そして、一子相伝の口伝を公表してもいいのか?

※応神天皇(八幡大神):神功皇后の三韓征伐の帰途、筑紫の「宇瀰」(福岡県糟屋郡宇美町)、または、「蚊田」(筑後国御井郡賀駄郷、あるいは、筑前国怡土郡長野村蚊田)で、仲哀天皇9年(367年?)に生まれたとされるが、これは仲哀天皇が崩御して十月十日後であるため、仲哀天皇の実子ではなく、側近・武内宿禰の子で。仲哀天皇に不義密通がばれたので、仲哀天皇を殺害したという。(豊臣秀頼は、北九州で受精して生まれた豊臣秀吉の子ではなく、側近・大野治長の子って話を思い出しました。)だとすると、「八幡大神は住吉大神の子」であれば、
  住吉大神=武内宿禰
となってしまいます。

※第73代武内宿禰・竹内睦泰(たけうち むつひろ。別名:南朝小倉宮の睦泰王):昭和41年(1966年)12月17日~令和2年(2020年)1月13日19時37分。代々木ゼミナールなど大学受験予備校の日本史講師「むっちゃん先生」。著書に『天皇の秘儀と秘史 : 「正統竹内文書」伝承者、第73世武内宿禰が明かす神々の祭礼の真実』(学研プラス。2019年2月)など多数。

 以上のように、「秘伝」に手を出すと、頭が混乱するので避けたいのですが、筑後国一宮・高良大社の秘伝『高良玉垂宮神秘書』によれば、高良玉垂命とは、「住吉大神(彦波瀲武鵜草葺不合尊)」の5人の子「住吉五神」の底筒男尊の別名であり、神功皇后と結婚して5人の子をもうけたとしています。(田川の高良玉垂命と神功皇后が繋がった!
・2人の子の長男と次男が「倭の五王」の讃&珍兄弟だとか。
・九州には「九躰皇子宮」「玉垂御子神社」「高良御子神社」がある。これは「九柱神社」「九王子神社」とも呼ぶべき神社で、高良玉垂命の9人の子(七男二女)を祀る神社(『高良社大祝旧記抜書』)だとするが、『高良玉垂宮神秘書』(第160条)には、神功皇后の9人の子(前夫・仲哀天皇との間の4人+後夫・高良玉垂命との間の5人)とある。

 神功皇后の子は、応神天皇1人だけではなかった。9人もいた! とはいえ、これは『高良玉垂宮神秘書』の話であり、実は『古事記』にある武内宿禰の9人の子だという(「高良玉垂命=武内宿禰説」)。


 このように、「秘伝」にまで手を出すと、知りたいことが書いてあることがありますが、知ると頭が混乱するので避けたいものです。(ということで、以下はメンバ-オンリーにしますね。)

高良玉垂宮神秘書同紙背 (高良大社): 1972|書誌詳細|国立国会図書館サーチ (ndl.go.jp)



第1条

(前略)
素戔嗚尊 神達集まりて追ひ失う間、樋の川の奥へ入り給ふ。その川の川上より箸一対流れ下る。「人が在る」と思し召し、川を伝ひに入り給ふ。片原に在家見えたり。立ち寄りてご覧ずるに、夫婦と姫一人みえたり。泣き悲しみ限りなし。素戔嗚尊、尋ね給ふ。「いかなる人にてあるか」。答へて曰く、「この浦は、三年に一度、この川に生贄(いけにへ)あり。今年は、わが姫に当たりて、男の肌に触れない女を生贄に供えるなり」。素戔嗚尊、聞こし召す。ここに至りて、「左様であるならば、悪龍を退治すべし」と仰せければ、翁、答えて申す。「御意にそふすべし」。喜び曰く、翁夫婦の名を足名椎、手名椎といふ。姫の名を稲田姫と云ふなり。素戔嗚尊、その意を得て、先ず、「八塩折(やしおり)之酒」という毒酒を造りて、舟一艘に乗り、上の社に段を構へ、姫の形に人形を造り置き給ふ。
風水龍王 八尾八頭の竜也。人形の形が酒に映りて、「酒の下に人がある」と思ひて、毒酒を飲み干す。もとより、かくのごとくせんがための企みであれば、川岸に酔ひ臥したり。素戔嗚尊、これをご覧じて十束剣(とつかのつるぎ)を抜きて、散々に切り給ふ。八の尾をことごとく切り給ふ。その中の一つに切れない尾があり、ご覧ずるに、氷の如くになる剣あり。取りてご覧ずるに、後の天照大神の三種のうちの宝剣なり。この剣は近江国の伊吹山にて失ひ給ふ。(中略)素戔嗚尊、宝剣を持ちて、元の斎所に戻られ、神達、集まりて、この宝剣を天照大神に贈呈され、喜びは限り無し。その時、素戔嗚尊と天照大神仲直り給ふ。(中略)この宝剣は風水龍王の八つの尾の中の尾にあり。剣のあるところから煙立ちて叢雲の如くに在るにより、「叢雲剣(むらくものつるぎ)」と申すなり。その後、草木に火をつけ国土を焼かんせしを伝え聞き、この剣をもって四方四十里の草木を薙ぎ払ひ給ふ。この時より「草薙剣」(くさなぎのつるぎ)と申すなり。(後略)

【Reco注】 乱暴者の素戔嗚尊は、姉・天照大神に高天原を追い出され、出雲国斐川(一説に北九州の川)に着くと、上流から箸一膳が流れてきたので、上流に人が住んでいると思って川を遡ると、鳥髪(島根県仁多郡奥出雲町鳥上)に足の長い足名椎と手の長い手名椎という老夫婦(諏訪では、諏訪大社の御祭神・建御名方神が入る前の諏訪の神で、建御名方神の家来になったとする)が住んでいて、風水竜王(八岐大蛇)へ3年に1度、処女を差し出さねばならず、今度の生贄は、娘の稲田姫だという。素戔嗚尊は、八塩折(やしおり)の酒を醸造し、稲田姫の人形と共に置いた。風水竜王が酒を飲んで弱ったところを十束剣(天羽々斬之剣)で斬ると、叢雲剣が出てきたので、天照大神に渡すと大喜びして、仲直りした。(この叢雲剣は、高天原から天照大神が落としてしまった剣で、伊吹山に落ちた。伊吹山は金属精錬を行う伊福部氏の領地で、風水竜王を神として祀っていた。)後に天照大神は、八咫鏡と叢雲剣を依り代として分霊が伊勢神宮に住むが、日本武尊が東征の途中に立ち寄ると、伊勢神宮の斎宮に叢雲剣を与えられ、国造に火で攻められた時、この剣で草を薙ぎ、向い火を点けて難を逃れたので、草薙剣と呼ばれるようになった。東征後、日本武尊は草薙剣を妻となった尾張氏の宮簀媛に形見として渡し、都へ帰る途中、伊吹山の神に襲われて絶命した。

ここから先は

3,753字

家族になろう!

¥1,000 / 月
このメンバーシップの詳細

記事は日本史関連記事や闘病日記。掲示板は写真中心のメンバーシップを設置しています。家族になって支えて欲しいな。