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茶々生存説

 豊臣秀頼、茶々、大野治長は、千姫を徳川に返し、本丸を出て蔵に潜んでいた。千姫が必死に助命嘆願するも受け入れられず、3人は自害したとも、井伊隊に銃殺されたとも。

 以上が通説であるが、生存説も2説ある。



1.茶々九州生存説


 茶々、豊臣秀頼、国松、真田信繁(幸村)は九州に逃れたという。

2.茶々関東生存説


 大坂城落城の折、秋元隊の陣中に豪華な着物を身にまとい、狂人のふりをした女性が飛び込んできて、命乞いをしたという。秋元長朝は、その女性を、茶々であると看破して匿った。そして、戦いが終わった後、所領である群馬県前橋市総社町植野へ駕籠に乗せて連れて帰ったというのである。(総社城に入る前、茶々は、持っていた梅の枝を刺した。これが根付いて「植野」という地名が生まれたという。)

 茶々生存説を裏付ける証拠として、元景寺(群馬県前橋市総社町植野)には、
・茶々の着物(正絹の大打掛)
・茶々の駕籠の引き戸(浅井家の菊紋、豊臣家の桐紋)
・茶々の墓(「心窓院殿華月芳永大姉」と刻まれた墓石)
がある。

 総社に連れてこられ、世を憚って「大橋の局御縁」と呼ばれた茶々は、不幸であった。幽閉され、その美貌から秋元長朝に言い寄られるも拒絶したため、箱詰めにされて利根川に沈められたというのである。
 別説では、生活になじむことが出来ず、自ら利根川に身を投げたとされる。(身を投げたとされる岩が敷島公園(群馬県前橋市敷島町)内の池にある「お艶が岩」である。)

 そもそも、茶々(大橋の局御縁)とお艶は別人で、豪華な着物や駕籠の引き戸があることから、本来の伝説であるお艶伝説の「お艶」が、茶々伝説の「御縁」に転用された(混同された)と考えられている。

※お艶伝説:昔、まだ「お艶が岩」がある場所が利根川の淵だった頃、お艶という名の美しい娘が、対岸に住む青年(秋元氏)に恋をしました。お艶は、毎日、岩の上に立ち、対岸の青年を見るのを楽しみにしていました。しかし、ある時、青年の気持ちが冷めてしまったのです。それでもお艶は毎日岩の上に立って青年を待ち続けました。やがて、青年は姿を見せなくなってしまうと、お艶は、悲しみのあまり、岩から利根川に身を投げ、死んでしまったので、お艶観音がたてられました。

・佐藤寅雄『前橋の伝説百話』前橋観光協会  pp.116ー117
・『日本の伝説27 上州の伝説』角川書店 p.41
・井野誠一『群馬伝説集成 4 』あかぎ出版  pp.23ー25
・横山隆則『風のふるさと まえばし』 pp.11ー12
・佐藤寅雄『岩神風土記』 pp.110ー112
・『前橋観光案内

   伝 説
 この”お艶が岩”には、こんな話が伝えられています。
「お艶とは」、実は”淀君”だったということです。淀君といえば豊臣秀吉の側室で、慶長20年(1615)大阪夏の陣に際し、わが子秀頼とともに大阪城の天守閣で炎の中、自刃したと伝えられています。
ところが、対岸にある元景寺に伝わる話によりますと、淀君は、大阪夏の陣に出陣した総社城主秋元長朝の陣に助けを求めてきました。
長朝は、淀君を篭に乗せ木曽路を通り総社に帰りました。もちろん当時、淀君をかくまったとあっては、たいへんなことですから、
”大橋の局御縁”と呼んでいました。その後、幾星霜、この城でなに不自由なく過ごしていた淀君でしたが、過去の悲哀に耐えきれず、遂には世をはかなんで、この岩の上から利根の激流に身を投じたといいます。この”御縁”が語りつがれていくうちにいつしか”お艶”にかわり、だれいうことなく、この岩を”お艶が岩”と呼ぶようになったいうことです。総社の元景寺には、”淀君の墓”といわれるお墓があり、淀君が使ったという、お篭も残っています。
なお、ここにある「お艶観音像」は、敷島公園愛護会がお艶330忌に際して、昭和34年4月 日展審査員 山本雅彦氏に制作をゆだね建立したものです。

現地碑文


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